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Episode 761 あなたに引き摺られてしまうのです。

私がこのHo+(HOTAS) 名義のアカウントで X(旧Twitter) を使い始めたのは2018年9月のこと。
それから5年半以上の時が流れました。

私のネット上での活動は、基本的にこのアカウントでnote記事を書くことが中心で、X(旧Twitter) は、主にこのnote記事の更新などのお知らせや、自助会開催の告知などに使うことが多いのです。

note/ブログなどでテキスト(文字)が主体のアウトプットをする場合、それに対してのコメントを書くことはできるのですが、それは私の書いた記事丸ごと一本…またはその記事に繋がるイロイロを含めてのご意見ですからね、X のような短文による会話風の意見交換ではないことが多いのですよ。

そのnoteの更新告知や自助会の開催案内が私の「SNSの基本利用法」ですからね、あまり反応を気にしていないのですよ。
つまり、いわゆる「壁打ち」的な使い方だと言うことです。

ネット用語、主にtwitter(ツイッター)で用いられる用語としても「壁打ち」が使われることがあります。
この場合の「壁打ち」とはTwitterにおいて、誰かの反応を気にせずに、ただただ独り言をつぶやくという意味です。

マイナビニュース「壁打ちとは?」より

もちろん、「壁打ち」のつもりであっても、それに反応してリプライをくださる方もいまして、そのいただいた反応に対しては、なるべくお返事をするようにはしているのですけとね。

今回は、そんな私の「壁打ち」ポストからです。

私はここを起点に、一般的に「受動型」と言われるAS"D"者の「私の気持ちがあなたの機嫌に引き摺られる現象」に想いを巡らせることになるのです。

このポストは次のように続きます。

あなたの行動が誠実だと思えるのは、私の誠実さとあなたの誠実さが同じ方向を向いているからだとした時に、 私からはあなたの行動が不誠実に見える時は、あなたの行動は本当に不誠実なのか?
私があなたの行動が不誠実に見えることを指摘するのは、不誠実なことではないかと不安になるのは何故なのか。

AS"D"的な「私の気持ちがあなたの機嫌に引き摺られる」現象は、単純な「他者視点と自己理解」の問題ではないように思うのです。
そこにあるのは、Autism思考を「不誠実」と指摘されることで積み上げられた経験が作る「トラウマ」があるのではないか…と。

Autistic(自閉の民) である私は、他者視点の弱さ(≒他者から自分の行動がどのように思われているのか想像する能力の弱さ)があり、それ故にあなたを慮る気遣いに欠ける(ように見える)ことが多くあるのだと、私の過去を振り返ってそう感じるのです。

例えば、この「ナチュラル故に気付きません。」という記事で話題にした、長男が私の好きなツバメの写真を送ってくれた「ひと手間」を、私は長男にすることができるか…ですけど。

私は「あなたはしないでしょ?」…と指摘したパートナーの言葉を聞いて凹むのですよ。
そこには…

①「Autistic である自分自身の他者視点の弱さ(≒他者から自分の行動がどのように思われているのか想像する能力の弱さ)」があり、
②相手を慮った行動をしないと指摘されることが多かったからこそ、
③社会一般的な反応ではないことが多い「自分の行動への不安感」が生まれ、
④「またやってしまった」という気持ちを作る。

…という一連の流れがあるのだと思います。

ここにあるのは、「他者視点の弱さ」という Autism の基本資質をベースにした社会的不具合の指摘を受けることを回避するために、自分の意見を封印し、あなたの意見に逆らわずに迎合することでトラブル回避を志向する「受動」と呼ばれるライフハックを多用するAS"D"者群の存在です。

この「受動型ライフハック」を選んだ時のAS"D"者は、基本的に自分自身の行動に自信がありません…迎合して自分自身の意見を言うことを放棄しているワケですから。
しかもトラブル回避の目安は、とても単純で明快なことが多いのですよ。
簡単なハナシです。

あなたが笑顔なら、私が怒られる心配はない、
あなたがゴキゲンなら、私の安全は確保されるから。

このアカウントではお馴染みのレイ(@wagonthe3rd)さんのポストの通り、自分の意見を放置して、何とかして「あなたの意見を自分の意見と思い込ませようとする」、その背景にあるのは「自分の行動への不安感」であり、その不安感を作り出す要因の部分に指摘を多く受けてきた過去に、定型社会が求める、指摘の理由を共有する「対話と理解」という経験の不足があるのだろう…と。

外国(特に欧米の先進諸国)に対して腰が引け、自らの正当性を主張できず、外国との「対話と理解」不調に終わってしまうように見える日本の姿が、AS"D"者を囲む社会と相似である…というレイさんの例えを受けて、「Autistic(自閉の民) に必要なアイデンティティとは何か」を、私は改めて考えるのです。

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