見出し画像

Episode 677 環境の方が問題です。

このアカウントのnote記事は、ASD当事者である執筆者 "HOTAS" が、自らの経験から理解できたASDの私のことを、可能な限り「説明」ではなく「読みもの」として文章に起こすスタイルで書いています。
あちらこちらからの比喩表現や、マンガやアニメといった「サブカルチャー」要素を取り込む理由は、説明を目的にしないために編み出した私なりのスタイルなのです。
大体にして、私はいち当事者である以外にASDに関する「専門的な教育」を受けてもいなければ、ASDを語れる公的な資格もありません。
私ができることというのは、せいぜい「私視点で思うASDの私が感じること」を言葉にすることくらいなのです。

そんなASDの私…「積極奇異/受動/孤立」と言われる「ASDの3つのタイプ」でどれに最も当てはまるのか…と問えば、恐らく「受動タイプ」になるのだと思います。
ただね、この「型/タイプ」というのにビシッとひとつのものに収まる人は少ないだろうと私は思うのですよ。
その辺りのハナシは「ASDの型ってなんだろう…」を話題にした記事があるので、そちらにジャンプして頂くとして…。

私がASDのタイプがひとつの型に収まらないと思う理由は、人として生まれた時は、誰しもが「積極奇異タイプ」と呼ばれるASDと同じ行動を取るのだろう…と考えているからです。

人が「心の理論」を獲得していくのは4~7才くらいのハナシとされています…ということは、少なくとも4才くらいまでの子どもは「心の理論」の理解ができていないから、自分の興味本位に走り回ったりするワケですよね。
「あなたのことなんかより私の満足が大切!」ってね。
それが「心の理論」を獲得していく過程で、あなたとの融通を覚えていく…自我を折り曲げて衝突を避ける工夫を獲得していくワケです。

その「心の理論」の獲得が上手にできなかった人がASD…「あなたのことなんかより私の満足が大切!」の融通の仕方がわからないから、大きくなっても積極奇異で我が道を行く行動が抜けないのだろうと思います。

ところがですよ、その我が道まっしぐらの行動は、歳を重ねる毎に咎められることが増えるのです。
そりゃそうです…「回りのコトなどお構いなし」が通用するのは、せいぜい小学校に上がる頃まで。
何故ならば、このくらいの歳になれば「心の理論」の獲得からお互いに融通し始めるワケですし周囲もそれを期待するハズですから、ワガママは指導の対象になるから…です。
だから、ASDの私でも「ワガママはダメなんだ」ということに「は」、気が付くのです。
そして私は注意されないようにするための方法を考えるのです…ただし、それは周囲の皆さんが期待する「心の理論」を理解することで導かれる方法ではありません。
結果として、あなたの言葉に迎合することで諍いを回避する「受動タイプ」と呼ばれるASDが誕生する…とすれば、「受動タイプ」のASDは「積極奇異タイプ」からの進化系ということになります。

受動タイプのASDには、私が「潜伏(≒良い子)型ASD」と名付けた、私のような性質のASD群があると思っています。

小学校の算数に「分数の割り算」という躓きのポイントがあります。
「分数の割り算」の解は、割る数の方の分母と分子を入れ替えて「掛け算」にすることで得られるワケですが、ではどうして「割る数の方の分母と分子を入れ替えて『掛け算』にする」と解が導き出されるのか…という理由まで理解して答えを出していた小学生がどれくらいいるのでしょうかね?
この理由はすっ飛ばして方法だけ理解することで切り抜けた人って、多いのではないか…って思うのですよ。

ASDの受動タイプって、つまりこういう理由を飛ばして方法だけ真似ることを「分数の割り算」以外でも多用せざるを得なかったワケです。
そして、その真似をすることで周囲の理解を得ることに成功すれば、それは「間違っていない」に繋がる…受動タイプのASDは、「本人の持っている資質以上に周囲の反応によって作られた」のではないかと思うのです。

こう考えた時に、受動タイプのASDが「何も考えていない」「自分の意思がない」と言われてしまう理由が見えて来る気がします。
つまり、自分の意思に従い行動することを止め、周囲に合わせる「受け」が生活の術として求められた時に、自分の意見を持つことは「生きる為の邪魔になる」ワケです。

学校生活は受動タイプASDでも特に「潜伏(≒良い子)型」との相性が良い…考えることを封印して従えば、学校は「物分かりの良い子」として評価してくれるからね。

そんな「潜伏(≒良い子)型ASD」の私の幸運は、歴史に興味を持ったことだったのだろうと思うのです。

歴史という学問に興味を持つに至った経緯を紐解くと、山崎豊子さんの小説「二つの祖国」と、往年の名作アニメ「機動戦士ガンダム」に行き着くのです。
(中略)これらの物語の中で語られる、国や組織が背負う「正義」という大義名分とは全く別に、戦うことで生じてしまう「理不尽」があるということに大きな衝撃を感じたことは、間違いありません。
そしてその歴史的事実の海底に沈む「理不尽」を読み取ることに、私は興味を唆られたのです。

note記事「理屈で説明できません。」より

もしも私が「歴史学への興味」を持てなかったら、生きる必要に迫られて考えることを放棄したまま、自分の考え(意思)を持つ大きな機会を失ってしまったことでしょう。

私は受動タイプASDが自らを語らない理由は、本人が抱える能力としての考える力や語彙力の弱さよりも、考えることを封印せざるを得なかった生育環境の方が、はるかに大きな要因なのだろうと感じるのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?