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Episode 560 型が全てではないのです。

宮崎駿監督のアニメーション映画『千と千尋の神隠し』に登場する「カオナシ」がASDの姿に見えるハナシは、私の幾つかある「物語のキャラクターでASDを説明する」という喩え話シリーズの中でもnote記事への登場回数が多い大人気キャラのひとつでして、そのくらい「カオナシ」という存在は「ASDの姿」を分かりやすく示しているのだと私は思っているのです。
そして今回もその「カオナシ」に登場してもらうワケですが、今回の話題は、ASDの「型」ってなんだろうね…というお話です。

前回の記事でお話しした仮説の通りであれば、自己境界の緩さから自己完結思考に陥ってしまう「カオナシ」の姿がASDの的であることに疑いはないのです。
ただ、「カオナシ」のASDタイプは何型なのか?…と問われたら、あなたはどのように答えますか?
恐らく、一番多いのは「受動型」という答えなのかなぁ…と想像するのですが、それは何を以て「受動型」と思ったのでしょう。
そう聞かれると、そもそもASDの「型」ってなんなのか分からなくなってきたりしませんか?
私は初め、「カオナシ」は「受動型」だと思っていたのです。
でも、彼(彼女?)をモチーフにしたASD記事を書いていて、「カオナシ」って何型のASDなのだか、分からなくなってしまったのですよ。
だって、ASD的なエピソードが「これでもか!」って言うくらい「てんこ盛り」なのですよ。
それらを紐解いていくとですね…。

私の思う自閉の本質は「自分の気持ちのコントロールができない」ということです。
これはどのタイプのASDも持ち得る性質だと私は思っています。
私が思うに…この「自分の気持ちのコントロールができない」を直球のストレートで体現するのが「積極奇異型」と呼ばれるタイプです。
カンタンな話です…自分の気持ちをダイレクトに行動に乗せるワケですから、「相手とタイミングを合わせる」とか「場面を考える」とかは反映されない…「こころの理論」を獲得する前の幼児は「通常に発達する子ども」も含めて、みんなこのタイプ…と考えています。

ここから、子どもたちは「あなたと私は違うことを考える別の人」ということを覚えていくのだ…と説明したのです。
それが上手くいかなかったのがASDと呼ばれる私たちである…と。

俗に言う「受動型」は添付した過去記事で説明した通りなので、そちらにジャンプしてもらうとしてですね、では「積極奇異型」「受動型」と並んで代表的なASDの型と言われる「孤立型」をどのように考えるのか…というと、「受動型」が拠り所とする社会的評価(価値観)への依存度をより高めたタイプなのだろう…と私は考えているのです。

孤立に耐える得るまで自己評価を高める、それを可能にする社会的評価があることが重要で、例えば学業成績や企業業績であり、年収や肩書きなどの評価があることが「自分の価値」を裏付けるものとして存在するのだと思います。
それ故に、「社会で評価される私の考え方は間違えていない(ハズだ)」という思考が可能になるワケです。

これにツイートのような「拗らせ系」が被さってくるワケですよ…ねぇ。

ところで、カサンドラ症候群と呼ばれる「ASD×定型」のパートナーシップでよく聞く「外では良い人だけでど、家ではモラハラ…」って言われる類の人って、孤立型なの?
家の中では「オレ様キャラ」だとすれば尊大型だろうけど、それって職場の上司に向かって通用するの?
そこは多分…尊大の部分が影を潜め、上司に「良い顔」をする受動傾向が…あれ?

そうなのですよ。
ASDの私は、人や場面によって「型」を使い分けているのですよ。
もちろん、本人には意図的に使い分けている意識がありません。

「ASD的な自他境界の緩さ」とは、こころの理論の獲得が上手くいかない私が、社会的に咎められることがないように「自分を封印した上であなたを観察する」というライフハックの獲得の過程で得た「副作用」である…ということになります。

前回の記事で指摘したように、ASD的な自衛手段の方法として「自分を封印した上であなたを観察する」というライフハックを駆使した結果、私はその場の状況に合わせた最善手を見極めて行動するワケです。
その後ろ盾にあるのが「自分の気持ち」ではなく「社会的価値観」であるとした時、私の行動の中で「自分の気持ちで繋がる行動の一貫性」が保たれなくなる可能性は否定できません。

冒頭の「カオナシ」のハナシに戻ります。
私には「カオナシ」の行動に一貫した方向性が見いだせないのです…だって、薬湯の札が欲しい「リン」の気持ちに乗り移り、砂金に喜ぶ「番台ガエル」の気持ちに乗り移り、「千」の気持ちに乗り移ろうとして否定され、逆上…ですよ。
その行動にASD的な特定の「型」が存在するのか…。

ASDの「型」を否定する気はないのです。
そういう特徴があるよ…と理解しやすくなることは間違いないのですから。
ただ、それがASDの人それぞれの個人の性格を指定することにはつながらないと私は考えます。

「型」に捉われすぎると「本質」を見失いかねない…と、私は思うのです。

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