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Episode 533 一択だけだと窮屈です。

「三匹の子豚」というお伽噺は、西洋の民間伝承のお話なのだそうです。
三匹の子豚の兄弟がそれぞれ「ワラ」と「木の枝」と「レンガ」の家を建てる…ディズニーのアニメ作品にもなったので、知らない人はいないくらい有名な話ですよね。
これ、何気に見ているけれど、何とも西洋の考え方のお話だと私は思うのですよ。
だって、子豚の兄弟がそれぞれに「オレの家」って、自分の選んだ別々な材料で家を建て始めるのですから。
18世紀という時代背景を考えた時、日本だったら木造の日本家屋一択ですよね…きっと。

日本の伝統的な建築方法には「継手」「仕口」と呼ばれる技法があって、その技術を使った建築物には釘を一本も使わないで建てられたもの…京都・清水寺の舞台とか…もあるのだそうです。
この日本の高度な木組み工法と呼ばれる建築方法って、日本の伝統的な社会を作り上げている技術でもありそうだなぁ…と、ふと思ったのですよ。

今でも中学校の技術科には「木工」でホゾツギの技術を教えるのでしょうかね…。
1970年生まれの私が中学生の頃は、まだそれが「必須の技術」とされていたのですよ。
時代は昭和の末期…高校進学がほぼ100%になって久しく経つのに、中学校の学習内容にはまだ「集団就職・金の卵」な雰囲気が残っていたように感じます。

木工の「基礎」とされるホゾツギは、一方の材料にホゾ(オス)を作り、他方の材料にホゾ穴(メス)を加工し、挿し込む…というものです。
キチンとはまれば強度も申し分なく、見た目に美しい接合が出来るワケです。

先日、私はTwitterで「ASDと言葉の問題」を次のようにツイートしました。

このツイートは、以下のように続きます。

ただ、自我を削ることに消極的な自閉症の私は、言葉をそのツールとして使うことができなかったのではないか…と思うのですよ。
すると、言葉は尖ったままの私の自我を振り回す「凶器」に変貌しかねないのではないか…と。
その一方で、言葉による自我表現を必要としないケースも考えられるのかなぁ…とも思うのね。
お互いの尖った部分を削る意思交換を必要としないなら、言葉に頼る必要も薄くなる。
自閉に絡む発語の問題って、言葉を掌る脳の発達だけの問題ではない気がしているのです…私はね。

「自閉の本丸」については、以前から何度もお話ししてきましたが、改めて「自分の意思を融通することができない」ことが自閉である…と、私の考えを記しておきます。

日本の社会はひとつの「日本家屋」みたいなものなのだろうと感じるのですよ。
つまりね、ホゾとホゾ穴みたいに削って接合するイメージなのです。
上手く組み合わせられるように、お互いに削る…ということですね。
建物を構成するために自分自身を「製材」にしている感じ…とでも言いましょうかね。
私は、上手く削ることができない「バリ」の部分が「自閉」の症状として表に出ることになるのではないか…と思うのです。
ツイートの例は「言葉」に対してですし、コミュニケーションの多くの部分は言葉に頼っているのは事実…でも、これは言葉に限った話ではないと思うのです。

Wikipediaによれば、三匹の子豚の話は、
①ものを作る時は、手早く仕上げるよりも、時間や手間をかけた方が、安全なものとなり、いざという時に役に立つことがあること。
②もの作りに限らず言えば、勤勉な人間であるほど、最後には大きな結果を残し頂点に立てる、ということである。
…という教訓を示しているとのことですが、それ以前に「自分の意思でどんな家を作るのかを決める」ということが大前提というところを見逃すわけにはいかないように思うのです。

以前に私は「追いかける立場」という社会情勢が日本という国には常にあったと指摘しました。

「豊かになるため」に追いかけている内は、選択肢が限定される…これが勤勉性と同調圧力を作りあげるという辺りは、日本より後発で、今このタイミングで経済発展著しい国々を見れば一目瞭然です。
韓国然り、中国然り、東南アジア諸国然り…それは、日本の通ってきた道であると思うのです。
後発になればなるほど、自らの意思で決められる範囲が狭まるのではないか?

日本家屋のような美しさを「日本伝統の」…としたとき、「おもてなし」というホゾツギを基本とする美意識が生まれるのでしょうか。
それを否定する気はありませんが、そろそろ日本家屋一択を改める必要を感じます。
ホゾツギが上手に作れない私は、レンガの家を作りたいワケです。

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