見出し画像

Episode 654 求めるだけではダメなのです。

「多様性」と言う言葉に脚光が当たり始めたのは、そう遠く無い「ここ数年」のこと…と、感じます。
恐らくそれは、"SDGs" と大きな関係があるのでしょう。

持続可能な開発目標(じぞくかのうなかいはつもくひょう、英語: Sustainable Development Goals、略称: SDGs(エスディージーズ))は、2015年9月25日に国連総会で採択された、持続可能な開発のための17の国際目標である。その下に、169の達成基準と232の指標が決められている。

Wikipedia「持続可能な開発目標」より

「多様性」という言葉は、ここを境にして「言葉として」の社会的な認知を国内で得たのだと思います。
少なくとも私の認識はそうです。
全ての人を対象とした「健康と福祉」や「人権と雇用」の実現…という視点から導き出される方向性の実現について、どうしても認めざるを得ないモノが「多様性」と言うことになるのでしょう。

だってそうでしょう?
例えば17項目の内の第5項「ジェンダー平等を実現しよう (英: Gender Equality)」ひとつ取っても、女性という存在を「男性と同等に」認める事を求めているワケだし、これが実現される事によって第4項「質の高い教育をみんなに (英: Quality Education)」は実現されるワケで。
特定の「特徴」による分類を排除することによって「多様性」は実現される…とすれば、「多様性が何を求めているのか」は意外と単純なことなのだと、私は思うのです。
もちろんそれの実現は、言うほど簡単ではないのだけれども。

「多様性(ダイバーシティ)」の実現が言葉の理解以上に難しいのは、言葉や理念の理解が想像以上に簡単だからだ…と、思うことがあります。

私は以前に、女性ASDが男性よりも少ないとされていたのは、「所属するコミュニティが女性に期待すること」がASD女性の「ASD特質」を消し去る方向に働くからではないか…という記事を書いたことがあります。

この裏側には、男性と女性がその「身体的な特徴」によって分業することが生き残る知恵だった時代が長く続いたことがあるのでしょう。
お爺さんは山に柴刈りに、お婆さんは川に洗濯に…と言った分業が必要だったのは、両方をひとりでするのはオーバーキャパシティであったからだと思うとですよ。

それが昭和の高度経済成長期に入り、「サラリーマンとその妻」の時代から急速に状況は変わって行くワケです。
お爺さんの柴刈りも、お婆さんの洗濯も機械化されて、時間的にも体力的にも余裕ができたワケです。
このことによる女性の社会進出については、添付した「技術は万能ではないのです。」に詳しく書いてあるので、そちらにジャンプしていただくとして…。

技術の進歩は日進月歩、クルマを例に上げれば、私が普通免許を取得した平成元年(1989年)は、クラッチのあるMT車の操縦ができないと免許が取れなかったのです。
それが今はAT車は当たり前、自動運転技術を搭載した最新型は「レベル4」の実現にリーチが掛かっているところまで来ているワケで、車の運転が「より簡単に、より安全に」という方向で急速に進化しているのは間違いないのは、誰の目から見ても明白なことなのだと思うとです。
AT限定の運転免許が設定されたのは、私が運転免許を取得した2年後の平成3年(1991年)の事、その当時にAT車は既に広く社会に浸透していたワケで、AT車にしか乗らない人がMT車操縦技術を持つ必要がないから、このAT限定免許はとても合理的な仕組みとして採用されたのだと感じます。
ましてやこれから先の自動車は、エンジンという内燃機関を使った駆動方式から電気を使ったモーターに移行して行くとすれば、トランスミッションという仕組み自体が不用になって行く可能性が大きいワケで、益々MTの仕組みを理解する必要性が薄くなるでしょうし。

AT免許が導入された約30年前に、今の自動車業界を取り巻く環境を想像できた人は少ないでしょうし、私のようにMT車の操縦ができることが免許取得の条件だった方々も、まだまだ現役世代としてバリバリ仕事をしていたりするのですよ。
MT車操縦技術が必須だった世代の方々が、この30年の技術革新に合わせて、それぞれの常識をアップデートする、それが出来れは何の問題も発生しないでしょうけど、現実としてはどうなんでしょうかね。

世の中には、小さな子どもからお年寄りまで、幅広い年齢層の人が生活しています。
そのそれぞれの年齢層の人が小さな頃に学習した「その時代の教育」は、その人の価値観に大きな影響を与えるのだと私は思うのですよ。
社会における個人の価値は、時代背景で変化して然るべきなのだと思います。
それを今の価値観でバッサリ…というのは、その人の生きて来た来歴を否定することにもなりかねないワケで。

社会に変化を与える「多様性」は、この価値観のアップデートにより実現されるとすれば、価値観の急激な変化についてこられない層へのアプローチは必須なのでしょう。
新しい価値観の導入は、古い価値観を捨て切れない人へのケアとセットなのだと思います。

新しさを追うことに必死になりすぎないこと。
新年を迎えるに当たり、そんなことを思うのです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?