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Episode 762 断定が分断を生むのです。

何度も繰り返しご案内していることではあるのですが、このアカウントのnote記事は、アカウント主で Autistic (自閉の民) である私 (HOTAS) が、私の目線で Autism をお話しするものです。
医師や心理士などの専門知識を持つ方の意見を参照することはありますが、あくまでも Autistic (自閉の民) である私個人の感覚でのお話しです。

私は Autistic というカテゴリの中に、こうした「個人の感覚」という個性に関わる部分を前面に押し出した「読み物」が、世に多く広がっていくことを望んでいるのです。
それは先日の記事でもお話ししたことです。

さて、今回も私の最近の「壁打ち」記事から…。

まだ未解明なところが多い Autism(自閉) と呼ばれる特性ですから、その解釈についてイロイロな意見があって良いのだと思います。

ただ、私の思う Autistic(自閉の民) の本質とは、はるまき(@41harukaze)さんが言う通り、「他者からの視線に気付けないこと」でして、これを一般的に「他者視点がない」とか「他者視点の欠如」とか言うワケです。

それを端的に示しているのが、さいこどくたーK(@psydrk)先生の、このツイート。
ある意味で、K先生のこのツイートは、私の「自らの思考整理」の原点といってもよいほど大切なものです。

過去に Autism 資質ゆえのトラブルや生きづらさがあったことは否めない…それでも、私は自らが持つ Autism 資質を、私を構成する重要な要素だと思っています。

そこにあるのは "Autism Spectrum(イロイロな表現/現象が含まれる自閉 [意訳] )" を "Disorder(秩序を乱すもの/障害)" と見る…というマジョリティである Allistic(非自閉の民) がメインの社会性の影響です。
極端なハナシ、Autism 資質が強く表出していても、Allistic が Disorder であると認識しなければ、Autism 資質は障害ではなくなるワケね。

以前に「愛されキャラ」の Autistic がいるよね…ということを話題にしたことがあります。
過去記事「読むより送るが重要です。」で話題にしたのは、Autism 資質が強く表出していても、それを受け取る Allistic 側がポジティブに受け入れてくれるケースは、間違いなく存在するだろう…ということでした。
つまりね、私が Autism の基本資質と位置付けている「他者視点の欠如」は、Allistic が標準装備している「他者視点」が Autistic にはない(または弱い)という事実を言っているだけで、その結果としての社会的なプラス要素やマイナス要素に言及しているワケではないのですよ。

ところが、Allistic / Autistic を問わず、多くの人が「他者視点の欠如」によって発生する現象だけに注目するのです。

定型(典型)側から見た「ワガママで自己中心的な人」とは、私とあなたのふたりがいた時に、あなたの意見があるのを知りながら、自分の意見を押し通すタイプの人を指すのでしょう。
でも、Autistic な「ワガママで自己中心的な人」は、あなたの意見があるのに気がつかないから、自分の意見を押し通すように振る舞ってしまうのです…多分。
このふたつは、内的な構造としては「全く別のモノ」なのに、外見の共通性から同一に見られがちになるワケでして。

note記事「飲まない理由があるのです。」より

「ASDが治る薬があったら飲むか?」という問いに、3/4の人が「飲む」と答えたのだそうです。
そこまでして Autistic であることから解放されたいと思う人が多いのは事実としてあるワケです。
薬を飲むと答えた人が多数を占めるということは、マジョリティである Allistic がメインの社会で Autism の基本資質と位置付けている「他者視点の欠如」はマイナス要素と認識されることが多いということです。

これを踏まえて、改めて冒頭の私の「壁打ちポスト」に戻り、「ASDの人は他者視点が欠如してる訳では無いと言う事はASDの方にとっては朗報では?」という意見を問います。

この意見に対して私が思うのは…

①Allistic / Autistic を問わず、「他者視点の欠如」は必ずマイナスの方向に働くものだという思い込みがあると思われる。

②仮に「ASDの根本原因が他者視点の欠如てはない」としても、ASDと診断された者の苦しみや悩みの解決が導き出されるワケではない。

③「それがASDの原因ではない、よかったね」というニュアンスが作り出す、それでもあなたはAS+D (= Disorder [秩序を乱すもの/障害] ) なんだよ…というダメ押し感(マイクロアグレッション [英語: Microaggression] )の存在。

…です。

現代社会はマジョリティたる Allistic の思考が「標準」として機能している…これは間違いない事実として、その「標準」を乱すものを障害と呼ぶ感覚は分かるのですよ。

例えば、なん(@nankuru28)さんの、ここから始まる連続ポストをどう思いますか?

自らの (マジョリティゆえの) 感覚から逸脱する行為を、マジョリティの標準という基準で断じることは簡単なのですよ。
だからこそ、自らと違う考えを持つ意見にぶつかった時に、相手方の主張に耳を傾ける姿勢が大切になる…違いますか?

マジョリティの感覚は社会的正義や道徳観と繋がりやすいのだと思います。
その道徳観は何をベースに成り立っているのか?

私は社会的正義や道徳観を否定しているのではありません。
ただ、私の意思の礎になる価値観が何なのか…は、理解しておく必要があるし、その価値観が社会的多数であることだけで少数意見を断じる理由にはならないことをわかっていることは、とても大事なことなのだろうと考えます。

あなたの意見に反対の意見を表明するなら、少なくとも私の意見が数的優位性だけを背景にしていないかを確認してから発言したいものだ…と思うのです。
まあ…わかっていても、なかなか難しいことなのですけどね。

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