読むより送るが重要です。
今回はレイ(@wagonthe3rd)さんのこのツイートから連想する、私の思うところについて…です。
このポストは以下のように続きます。
(AS"D"のような)発達障害を持つ人でも、中には「愛されキャラ」の人いるワケで、その愛されるポイントが「その場の空気が読めること」より「その場の(ポジティブな)空気を作ること」で成立しているのではないか…という意見ね。
それを前提として、レイさんが云わんとしているところは、非言語メッセージを「読む」よりも、良好な非言語メッセージを「送る」ことで、お互いの関係性にポジティブが確保されている可能性があるよね…ってこと。
このハナシの肝は、AS"D"者が作り出すポジティブがバフとして機能している点ね。
典型的な例は、「さかなクン」…かな。
彼は発達障害であると公言しているワケではないのですが、彼が発達障害であろうとなかろうと、あの独特なキャラと行動が「風変わり」であるのは、恐らく誰もが持つ印象でしょう。
それで、その「さかなクンの風変わり」をネガティブな方向に捉えている方は少なくないですかね…と。
私の知る「さかなクン」は、メディアを介してお茶の間の届く姿ですからね、少なからずメディアによる(またはメディアを意識した)デフォルメはあるだろう…とは思うのです。
ただ、その「さかなクン」が作るポジティブな雰囲気が、「アイツだからな」って「大目に甘目に」を容認するを作り出している可能性は大いにありそう。
ここまで来て、最初のレイさんのポストに戻り、Autistic が発する無意識無自覚に送ってしまっている「非言語メッセージ」は、ポジティブなのか…を問います。
仮に私の場合、ですが…。
私はポジティブな非言語メッセージを送るのに長けていた…とは到底思えない少年だったと思います。
私も多くの Autistic が持つ一般的な特長のひとつである「興味の範囲が狭い」点があったのは間違いありません。
Autistic の「興味の範囲が狭い」理由は、アロセントリック視点…つまり他者視点の弱さから来る自己視点の強さがあるように思います。
自分の興味関心に注意か向かうばかりに、「あなたの好きなもの」に付き合う視点を保つには「あなたのハナシを聞く」を意識しないとならないワケ。
そしてその意識が途切れると、私の意識から「あなたの興味につきあっている姿勢」自体が消えてしまう…と。
だから、「あなたのハナシを聞いてますよ」と言う非言語メッセージがね、上手く機能しないのだと思うのです。
私の興味ある分野のハナシは饒舌で、あなたが聞いてくれることを良いことにペラペラと喋り続ける一方で、あなたの興味あるハナシには無関心で、何とか作った「あなたのハナシを聞いてますよ」という姿勢にも「飽き」や「疲れ」が混じれば、私の発した非言語メッセージがポジティブにあなたに伝わる…とは、思えません。
そして意図せずにネガティブな雰囲気と繋がってしまった私の態度は、あなたの私に対する評価を下げることになるワケです。
こうなってしまうと、そもそもできない(または苦手な)非言語メッセージを「読む」に対してのバフは期待できないから、指摘されることも多くなるし、だからこそ更に非言語メッセージを読もうと身構えることになるからね、結果「身構えてます」という非言語メッセージを送ることになってしまい、より一層できないの指摘を受け易くなる。
あぁ、経験あるよ…それ。
…などと、私の過去を思い返しながら、なるほど…と思ったのです。
なるほどねぇ…。
私の発する非言語メッセージがあなたにポジティブに伝わるかネガティブに伝わるかの積み上げで、あなたから返ってくる私の欠点や失敗への「容認度」が変わる…は、あるなぁ。
私の出している雰囲気はどんな感じだろう…を改めて見直してみた方が良さそうです。
本文中に埋め込んだ過去のnote記事は、学生時代とここ数年の私の姿を題材にして記したものです。
どちらもエゴセントリック視点が強く、あなたとの関係でポジティブな非言語メッセージが表現出来ない私の姿が描かれています。
結果として、あなたからのバフが期待できない Autistic の姿…という視点が読み直すと、非言語メッセージが社会で果たす役割の大きさが見えて来るようにも思います。
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