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Episode 269 失敗を糧にできません。

最近、公園の遊具がどんどん減っている気がします。
昔は近所の児童公園に必ずといってよい程あった回転ジャングルジム・シーソー・箱型ブランコとか、今はめっきり見かけなくなりました。
撤去の理由は落下や挟み込みによる重大事故の発生が主たる要因のようです。
事故が起きていいとは言いません、でも…。

私は、子どもの膝や肘に擦り傷があるのが普通だと思っていました。
遊びの中で怪我するは普通だと思っていたのです。
駆けっこして転ぶ、木登りして落ちる…は、普通のことだったような気がします。

例えば、芝生の上で走っていて転んでも、転んでいたくても傷にはならない。
でもアスファルトの道路でコケれば直ぐに擦り傷が出来る。
木に登って…高くて降りられない。
傷を作って泣いて帰って、「まったくもう!」とか怒られながら、しみる消毒液に怯えて絆創膏を貼られるとかね。
最近はこんな両膝に絆創膏の「やんちゃ坊主」が減った気がします。

私はこの小さな痛さを経験しないで大きくなることに、すごく危機感を感じていたりします。
何でもかんでも安全安全って、遊び道具を取り上げたら…。
公園でボール遊び禁止って、どういうことよ?
どういう向きでキャッチボールしたら周りに迷惑か考えるだけの話じゃないの?
危なくないように固いボールを使わない工夫をするだけじゃないの?

この場面はこれをしちゃいけない…とか、経験が無いから分からないじゃないかな。
小っちゃい子が来たからやめようぜ…とか、判断できないんじゃないのかな。
それって、年上の子の遊び方を見ていて覚えていく話だったような気がします。
お兄ちゃんお姉ちゃんは手加減も知っていたようにも思います。
膝や肘に小さな傷を作って、「これは危ない」って理解していくトライアンドエラーの機会が減ったと思うのです。

…と、外から見える具体的な危険の察知という点に関しては、恐らく人並みの痛さを理解している私ですが、自分の内面に向いてこの「理論」が通用するのかと問えば、恐らくNoでしょうね。

以前から指摘しているとおり、人とのコミュニケーションの輪を広げていく中でトライアンドエラーを経験して、人の感情は成長していくのです。
私の場合はどうだったのかを改めて振り返るわけです。

コミュニケーションが苦手でひとりでいることが多かった私は、トライする機会自体が少なかったのは間違いありません。
でも、それだけではない気がするのです。
エラーを修正してトライに結び付けていたのか?

私は自分の大切な自己肯定感を守るために "Continue" ではなく "Reset" を選択したのです。
多分、同じ方法でリトライしたのです。
そして同じ失敗を繰り返したのです。
なぜ、同じ方法のリトライを繰り返したのかと問われれば、私の記憶を作る知識にはマンガや小説がベースの物語が混ぜられているからでしょう。
その方法で物語は進み、失敗はないのです。
失敗するハズはないのです。

ところが、私がやると失敗するのです。
当然です、私が去年経験したエラーを修正していないのですから。

ASD者の強い自己肯定感は、いつまでも変わらない「少年ぽっさ」とか「少女っぽさ」の輝きを放つことがあります。
我が道を行く芯の強さと自信のように見えるそれは、人生を "Continue" してこなかったからこその輝きなのではないか?
その輝きは、成功に溢れた自信ではなく、失敗を受け付けない防御から生まれたのではないか?

遊具を撤去された児童公園で、子どもたちは何をして遊ぶんでしょうね。
心に小さな擦り傷を作ってこなかった私の中も、きっとこんな風に遊具がなかったのだろうと思うのです。

旧ブログ アーカイブ 2019/6/10

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