見出し画像

Episode 504 「正論」ゆえの「飛ばし」です。

私は「私のASDっぽい行動」について、いろいろなものに喩えることで自分自身の特性について理解を深める…みたいなことをやってきました。
その中に「カオナシ現象」と呼んでいるものがあります。
そう、宮崎駿監督の名作「千と千尋の神隠し」に登場する、あの「カオナシ」です。
私は手から金を出しながら暴走する「カオナシ」の姿が、自己境界の緩いASDと被って見えるよね…と、指摘したのです。

ASDの自己完結してしまう思考は、「あなたは(きっと)こう思っている(に違いない)」と、あなたが考える領域を勝手な思い込みで断定し、その上で私の考えを被せる「(会話)飛ばし」と呼ばれることをしてしまうことがあるのです。
「千と千尋」の話は、その飛ばしてしまった思考を「金」という目に見える形で表現している…と映るワケです。

さて…先日、まめ(@mo_zahrada)さんがご自身のnote記事で「気持ちを共有する=心の現状把握」ということをお話しされていました。

自分はどうしたらいいか?を聞くのではなく
妻ちゃんの悩みはつまりこういう事だね?と私の話の内容を一旦キャッチして欲しいのだ。
それは解決に向かう途中経過ではなく、私が夫に話す時、してもらいたい目的そのものだ。

おそらく、記事の中の「この一文」が全てです。
この話は当に「ASD的なカオナシ」の夫さんが、パートナーであるまめさんの気持ちを受け止める部分を「自己完結」で飛ばして解釈して、まめさんを「解決策を考える…」という自分で設定した飛ばしの着地点に引っ張り込もうとする…ってハナシなのだと思います。

この夫さんの行動は痛いほど私と同じでして、同じだってわかっているほど自己理解しているにも拘らず、いつも同じ場所で躓き、同じ指摘をされるのです。
飛ばしてしまうのは「あなたの気持ち(言葉)を受け止める」という最初のステップで、現状認識の確認を飛ばすから、どうしても「私の思考に引き摺り込む」ことになるワケでして…。

不思議なのは…こうなってしまうメカニズムは自己解析できるのに、このことについての学習ができない…という事実です。
それを自己完結してしまう特性だから…の、一言で片付けてしまうのは簡単なのですが、どうもスッキリしません。
そんな中、このモヤモヤした霧を払う風が吹いたのです。
先日のnote記事で話題にしたTwitterで見かけたすの子さんの、あのツイートです。

ツイートの主題は、自分の気持ちの代わりに既存の社会的常識や世間体を不本意ながらも自分自身の価値観の中心に据えるから、状況に合わせての融通を利かすことができずに間違えていたとしても修正することが難しいのだ…ということだと私は思っています。
ASDの未熟なコミュニケーション故の意思のすり合わせの困難さ、それを補完するための修正が要らない既存の価値観への過度の依存…ここまでは前の記事で指摘したことです。

なぜ自己完結することに疑問を持てないのか…?
それは、自分の辿り着いた答えが正解以外はあり得ないから…だって、私の答えは社会的な常識で担保されているのだから。

こう考えると、「飛ばし」の理由がハッキリ見えてくるのです。
私の答えは社会的価値観で担保された「正論」で、私の考え得る「ありとあらゆる角度」…どこから見ても間違いはないハズ。

ASDと定型の関係で「具体的なすれ違い」「会話の噛み合わなさ」に繋がる自己完結に纏わる「飛ばし」の正体はコレか?
正論で間違いではない都合で「失敗した」という認識が持てないなら、「失敗を糧に」…という発想にはなり得ないワケです。

なんか自己完結を軸に、"Reset" されて経験に蓄積されない構造が炙り出されてきたように、私は感じるのです。

合わせてこちらの記事も読むと、理解が進むかも…。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?