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向かい風が必要です。

今の世の中を動かす仕組みは、何となく出来上がったモノではないのです。
それが熟考の上に作り上げられたモノであれ、苦渋の消去法による止むを得ない判断であれ、今現在なカタチには、そうなっている理由があるのだと思います。
ただ、「今の仕組み」が今の世の中にジャストフィットしたベストなモノなのか…と問うた時、それは必ずしも "Yes" ではないのだとも思います。

私のような自閉の民 (Autistic) は、最近になって発達障害という言葉と共に「その存在」が見え始めたのだろうと思います。
だからと言って、私たちは決して突然変異の「新種 (New Type)」ではありません。
今までの時代にも自閉の民 (Autistic) は存在していた…けれど、自閉の民であることが大きな問題にならなかった可能性はあるようにも思います。
そこにあるのは、文化や環境も含む社会の仕組みと、個人の持つ Autism 性とのマッチングなのかもしれません。
昔なら上手く行っただろう人が今の世の中では生きにくい…とか、昔の仕組みでは苦労されただろう人が、現代社会では上手く立ち回れる…とか、あるのだろう、と。

そうは言っても、今の世の中で「自閉の民 (Autistic) の生きにくさ」という声が多く聞かれるようになったのは、発言できるようになった環境側の変化もあるでしょうが、現代社会は多くの自閉の民 (Autistic) にとって、その仕組みと上手くマッチできないが故に生きにくいことが多いのだろう…とかも、思います。

でもね、今の世の中の仕組みが全てにわたって自閉の民 (Autistic) に試練を強いる向い風 (Against) なのか…と言えば、そうではないようにも思うのですよね。

ここ最近の私が思う「Autism の感覚」とは、他者視点の弱さと表現されることが多い「エゴセントリックな視点」が作り出す「私という単視点による納得」から生み出されるものの集合体です。
つまり、その納得を得る深さが個人で違うが故に、個人によって表面に現れる事象が異なるワケです。
その辺りのハナシは、過去記事「"Egocentric"な納得です。」に詳しいので、そちらにジャンプして頂くとしてですね。

恐らく定型者から見た自閉の民 (Autistic) の「自閉度」は、この「私という単視点による納得」の深さと大きく関係しているのだと思います。
言い聞かせてみてもガンとして動かない…は、あなたの言葉が私の納得を満足させる理由にならないから。

周りとの関係の中で、ことの真相は一旦横に置いて現場を前に進めないとならない…が一般的な感覚として、そこには「私の理解」という満足よりも周囲との共和が優先される「アロセントリックな視点」があるのだと思います。
ここで「私の理解」という満足が「言われたことを実行すること」なら、定型者の「アロセントリックな視点」の枠内で、私の理解というエゴセントリックな視点を完結することになる…ですよね。
つまり私はしっかり自閉の民 (Autistic) の行動をしていながら、見かけの自閉度は軽くなるワケね。

Autism をAS"D"という「障害」に変えてしまうのは、定型者から見た「アロセントリック視点」による見かけの自閉度なのかも知れない…とした時に、「アロセントリック視点」が効かない方が有利な分野に Autism の性質的な優位が項目が発生する可能性はないか…とか思ったのですよ。

と言うのも、「日本的障害者福祉の問題」を扱った「役割分担が必要です。」という記事を X で紹介したところ、レイ(@wagonthe3rd)さんから次のような引用リポストが付いたのです。

私のnote記事をかいつまんでお話しすると、今目の前の問題を解決するのとは別に、今の問題を起こしている根本原因を解決することは、同じ次元で考えることではないし、そもそも考える担当も変える必要があるよね…と言う内容だったのですが、レイさんは「たった今」「まさにここ」ではない先の広がりの向かう先…には Autism の思考パタンが有効だろうと言うのです。

つまりね、今の最優先である「目の前の大事」に目が行くのは定型的アロセントリック視点では当然のことで、根本原因の解決は一旦横に置いて現場に集中するワケです。
この結果として、「目の前の大事」とともにあったハズの根本原因も、「目の前の大事」の収束とともに見えなくなる可能性はありそう…違いますか?
だから定型者には「単純接触効果」が有効なワケ…つまり、定期的に事象との接点を作る事が記憶の風化を防止することになるのですよ。

その一方で、定型一般的な「アロセントリック視点」に弱い Autistic には、最優先の「目の前の大事」が解決されても、裏側に隠れた根本原因の未解決に納得できない人がいそう…。

以前に私は Autistic にSTEM分野が強い人が多い理由を「融通が利かない方が楽だから」と説明したことがあります。
つまりコレも、アロセントリックに流されず、理論的にエゴセントリックな納得を求めるからだ…とすれば納得のハナシ。

今の世の中の仕組みは、この定型的なアロセントリックな感覚による融通が根本にある…として、だからこそ Autistic のエゴセントリックな感覚は逆風になるワケです…が、その曲がらないエゴセントリック故に風を捕まえてトビ(Kite) のように舞い上がる…は、あり得るように思います。

トビ(Kite) が舞い上がるに必要なのは「向かい風(Against) 」であるとすれば、自閉の民 (Autistic) に「向かい風(Against) 」が吹くことは、決して悪いことだけではない…とか。
問題は、いかにその風に乗るのか…かも知れません。

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