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Episode 470 自分を知るのは大事です。

ASDが「個性」か「障害」か…という議論は、ことある度に浮上する論点だと思います。
昨日もTwiterでそんなツイートを見かけました。
この件に関しては、以前に私の意見はこのコラムにも書いたのですが…。

この件で問題とされるポイントは、恐らくひとつではありません。
それが同時に同じ土俵で語られることに混乱を招く原因があるのだろうと私は感じています。

ひとつ目のポイントは、自覚があるのか…という点ですよね。
私はここ最近のnote記事で、自覚に至るまでのASDに焦点を絞ってお話しをしてきたつもりです。
自覚できない理由・自覚を促すポイントは、「先天性の難しさ」と「保守と革新」というモチーフで説明できます。
「自らがミュータントとして弾かれる」という外的な圧力がかからないと、革新の立ち位置に立つべき自分の姿が見えないのです
私たちASDは、ミュータントであることに気が付かずに一般社会で生活できるように「外モード」や「擬態」を駆使して表面上だけでも社会生活が送れるように努力します

その寄せる作業の違和感こそが、あなたも私も、お互いを疲れさせてしまう「障害」であるワケです。
つまりね、そのお互いを疲れさせてしまう「事実」があることが既に「障害」なのですよ。

その一方で、障害があるということが障害者の全てを覆うわけではないのです。
少なくても私は、体は健康ですしね、仕事をして、素晴らしい景色を見て、好みの音楽を聴いて、美味しものを食べて、大好きなあなたと共に過ごす…という贅沢ではない程度の私の思う人並みの幸せを感じて生きているわけです。
この普通の生活をおくるのに、私には障害がある…なんて常々考えながら行動しているのか…と問えば、それは違うワケですよ。

ここから暫く、ASDであることを自覚した私が、ASDである私の足元を見られるようになるまでの話をしようと思います。
それは自分が何者かを考えるって話です。

ASDという「特性」をもつ私。
それは、社会生活やコミュニケーションの困難を抱える「障害」の原因であり、私という人間を作り上げている「個性」の一部であるってこと。
どちらかではなく、その両方であるということ。
そして、それが私のアイデンティティを作り上げる大事な要素であるということ。

私が思う、劣等感のないASDの自認・自覚とは、「私は私を理解する」ことにあるのだと思います。

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