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Episode 637 劣等感は要りません。

「きかんしゃトーマス」を題材にした前回の記事を書いていて思ったことは、世の中はゆっくりとニューロダイバーシティの方向に進んでいくのだろうという、個人的な感覚でした。

このことを考えるにあたって思い出していたのは、一年ほど前…2021年の秋にあった東京パラリンピックでのことです。
東京オリパラに関して、後ろ暗い事件が話題になっていますが、そのことは一旦横に置きまして…。

私はパラリンピックに思うインクルーシブな発想…という点について、一年ほど前にnote記事を書きました。

ところで…パラリンピックの開会式/閉会式で、手話通訳者が実況中継する放送がされたことは記憶にありますか?
NHK Eテレで、NHK総合で放送されている開会式/閉会式の内容が、手話通釈者が前に立って同時放送されたことを記憶されている方もいると思います。

この背景には「ろう者にとっての日本語」という問題が存在するのだそうです。
日本人であるろう者は、第一言語が「日本手話」で、「日本語」は第二言語という位置付けなのだそうです。
つまり、第一言語が日本語の私が、洋画を英語字幕で見るみたいな話しということです。
理解が速い第一言語である日本語ではなく、自信のない第二言語で意味をどこまで理解できるか…を、想像してみればその難易度がわかるということでしょう。

この場合、私は日本語ネイティブな日本人という位置付けにあるワケでして、日本国内で生活しているのなら、立場的に「マジョリティ」となります。
ですから「どうして日本語字幕ではなく手話通訳が必要になるのか」という点について、日本手話を第一言語とするろう者に理由を聞かないとわからないのです。
マイノリティが自らを説明する必要について、マイノリティ側に立つ機会が多いASDの私ですが、私が全てにおいてマイノリティではないということは理解しなければなりません。
その一方で、マジョリティでありマイノリティである私は、この「説明の必要」についての裏と表の「両面」を見ていることになります。

「ろう者にとっての手話は自己表現としてのアイデンティティである」ということは、パラリンピックの開会式/閉会式についてネット検索すれば、多くの記事でヒットするろう者の思いであるのだと思います。
その大切なアイデンティティについて理解を求めたい…と思うのは当然のことでしょう。

振り返って、ASDの私が自己理解を深め、社会で生活していく上で「ASDとしての私」というアイデンティティを確立してきたのか…と言う問題が発生します。
ASDを「私のアイデンティティ」と捉えられるのか…ということです。

私の場合、ASDそのものに起因する社会との摩擦そのものよりも、うつなどの二次障害で不調に追い込まれたことは間違いなく、二次障害を起こさないようにASDそのものを封印しようと抑え込む努力をしてきたのだろうと思います。
でも、ASDという特性は先天的なものであり、どんなに注意深く抑え込もうとしてみても、完全に抑え込むことは出来ませんでした。

社会に訴えかけ、共存を目指すのであれば、ろう者にとっての「ろう文化」というアイデンティティと同じように自閉者にとっての「自閉文化」というアイデンティティが必要なのだろう…と感じます。
でもそれは、そんなに難しいものではないだろうと思うのです。

ASDである私に劣等感なくいること。

障害に対しての理解は定型に求めるものだけではなく、当事者が自分のアイデンティティとして自己理解する必要があるということです。
むしろアイデンティティの確立の方が重要だろう…と。

「きかんしゃトーマス」に今回仲間入りする「ブルーノ」は、『重い貨物を強力なブレーキで安定させる仕事を担う。楽しげで、駄洒落を好むキャラクター』なのだそうです。
そこには自己を卑下することのないアイデンティティがあるのでしょう。

「ニューロダイバーシティ」の入口に立ち、先ず「受け入れる」を考えたくなる気持ちは分からなくもありません。
でも、準備が整わないうちから「受け入れる」を考えるのは、受け入れる「仕手」と「受け手」を作ることにならないか…と思います。
まず必要なことは、当事者のアイデンティティを確立し、それを伝えることではないか…と、私は思うのです。


ニューロダイバーシティについての詳しい説明は、村中直人(@naoto_muranaka)先生の著書、「ニューロダイバーシティの教科書」に詳しく書かれています。
手に取って損のない一冊です。

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