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Episode 567 パラリンピックに思うのです。

パラリンピックが終わりましたね。
この時期にパラリンピックをやることに対しての是非については、読者の皆さんもそれぞれに思うところがあるでしょう。
私もいろいろと思うところはありますが…ここでは場違いなので話題にはしませんけれど。

私が精神障害者保健福祉手帳を取得したのは2017年11月のこと…2年ごとの更新なので、ちょうど今、更新の手続きを始めるところなのですけどね、今回のパラリンピック東京大会は、私が手帳を取得して初めて開催される大会だったのです。
前回大会、2016年のリオデジャネイロは地球のちょうど裏側…日本からの時差は12時間で、時差なしの東京大会のように見ていなかったように思います。
ただ、時差だけが観戦しなかった理由ではないように思うのですよね。
理由はカンタンで、私が手帳を取得する前だったから。
それほど障害者スポーツに興味があったワケではなかったから。

なんだかんだと言って、今回の大会は良く観ていました。
そして、今までにはない気持ちでアスリートを見ていたように思います。

先日、すぷりんと(@External_WM)さんのツイートを私は引用させていただいたのですが…。

私は自分に白黒つけたくて障害者手帳を取得しました。

2018年9月に、私は「どこかに線を引きたいのです。」という記事を書いています。
つまり、一度は「線の向こう側の人」であると確定されたかったということになります。
そして2020年12月に、引いた線を消す…と言う記事を書いているのです。

この2年の間に、私になにがあったのか…というと、「障害」というものの考え方に変化があったのだと思うのです。
何と言うか、それこそ「引かれたラインを消す」ことに意義がある…と思ったというのが、一番近いニュアンスでしょうかね。

例えば…私は教育学部の出身ですが、教育に関係する仕事に就いたことがないので素人なのですけどね、「インクルージョン(インクルーシブ)教育」って聞くことがあるじゃないですか、それが障害のある者とない者が共に学ぶことを通して、共生社会の実現に貢献しよう…って理念で提唱されているのは分かるのですよ。
でも…多分「ラインを引く」がキチンと理解できていないと、全く意味がなされないのだと思うのですよ。
障害があるよ、だからにそれに対しての合理的配慮が必要だよね。
ここをすっ飛ばしてインクルージョンは実現しない…それは即ち「障害の確定」というラインを引くことは必要だということだと思うのですよ。
明確に障害の位置を確認し、それに対して適切な配慮があるからこそインクルージョンが生きてくる…違いますかね?

私自身が障害者手帳を持つようになったからパラリンピックを見る様になった…それは多分、間違いありません。
そして、その「パラアスリート」を見ていて思うのは、引かれたラインを消していく努力をしている人たち…ということ。
多分、自分の障害に対して誰よりも本人が理解していると思うのです。
だって、自分の障害と向き合わなければ、必要な機材にも必要なトレーニングにもたどり着けないでしょう?
ただ…障害があることは事実で、五体満足な普通の人と同じことは出来ない、それも分かっているワケで、だから助けを借りる部分に関しては支援を仰いでいる…ですよね。

手帳を取得して変わったことは、この考え方なのだと思うのです。
確定診断や手帳取得で「ライン」が引かれるのは必要だと思うのですよ。
その引かれた「ライン」をどのように取り除いていくのか…それが配慮であり支援である、と。

パラリンピックの理念は「パラスポーツを通じたインクルーシブな社会創出に向けて」と明記されているのです。
その理念の体現方法として「障害を受け入れた上でどのように自らを生かす方法を見つけるのか」のひとつの指針がパラスポーツだと気が付いたら、競技を見る目も変わるでしょう。

線の向こう側で、イチから考えた。
その結果としてパラリンピックを見る目が変わった…ということなのでしょうね、きっと。

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