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Episode 532 伝わらないことが障壁です。

以前、「障害とは何なのか」ということを、これほどわかりやすく明確に伝える言葉が他にあっただろうか…と私が感じた新聞記事があります。
Twitterで紹介されたその記事を、改めてここで紹介させていただきます。

定型/健常と呼ばれる「普通」の人と比較して不自由があると感じる、それを障害という名前の「壁」があると言うんだよ…と、わかりやすく説いたこの言葉は、私のココロに大きな影響を与えます。

先日私が書いたnote記事で、「学校教育の問題点」として私が感じていることを書きました。

残念ながら、日本の「教育における力点の置かれ方」は、個人の資質を見ながら考え方を教える…のではなくて、知識に偏重して教え込む…だということです。

この「詰め込み」の弊害が、「できる/できない」という評価の重要ポイントとして現れる…結果として、「知識を持ち合わせることこそが教育だ」という勘違いが起きやすいのだろう…と、指摘したのです。
従って、教師の仕事として「理解させる」ことが重要な位置を占めることになったのではないか…と、私は思うのです。
ところで、この「理解させる」って、どういうことなのでしょうかね…。

このツイートは以下のように続きます。

この「理解させる」ができると思うと、苦しくなるのです…定型もASDも。
「普通はわかること」は、理解する側の能力の問題で、定型の標準的が基準になるワケ。
この基準の上に「教える」「理解させる」が存在するのね。
ここを取り払わないと定型側が病むことになると思うのよ。

先日、私はTwitterで「理解させる」について、このようにツイートしました。
これは「教えるってなんだろう」と思いを巡らせた結果のツイートです。
「教える」と「覚える」の関係性を考えた時に、結局のところ「覚える」のは理解する側の話であって、「教える」とは「覚える」を手助けすること以上にはならないのだろう…と。
もちろん、教えるのが上手な方というのはいらっしゃるのです…が、それは「教わる側が理解しやすいように伝える能力」というのが正しい認識で、結局のところ、教わる側の覚える能力…即ち「理解力」の問題なのだろうと、私は思うのです。

私は日本的な教育体制は、「教える」を基本に据え、言い聞かされたことを「覚える/理解する」が標準的にできるようになることを評価の基準に考えられているように思うのです。
必然的に、この体制で教育を受けた人たちは、「言い聞かされたことを理解することが普通にできること」を標準装備と捉えるワケですよ。
ところが、ASDの私は、この理解が定型の方と同じようにできなかったワケです。
あ…これは学校で習うような知識の話ではありませんよ、「私はこう考える」と「あなたはどう考えるのか」の擦り合わせが難しい…以前から指摘している自閉の本丸の話です。
方や…ASDでも、知識はしっかりと理解する能力があるワケで、特にコミュニケーションに関連する「特定の領域」で、定型の方が「標準装備」している「言われたことの理解」という能力の未達成があるのだと思うのです。

ここで定型のあなたは不安になる…「私が言っていることが通じないのは何故?」って。
問題の本質は「ASD側の理解力の問題」なのですが、言い聞かせることで教育されてきたあなたは、言っても理解されないことに焦燥感を感じることになる…。

先程のツイートに立ち戻ってみれば、ASDのパートナーとしてコミュニケーションに苦しんでしまうカサンドラの方も、子どもの行動に悩む親御さんも、言い聞かせて通じない、予想外の反応あるなどのことに悩みの発端があるのではないか…と、感じるのです。

もう一度、冒頭の新聞記事に立ち返って「しょうがいの正体」とは何なのかを考えます。
発達障害などの目に見えない障害の場合、定型の方が「普通に」持ち得る理解に足りない部分を「壁」とする…ということになるのでしょうか。
これを作っているのは、「理解する」ではなくて「理解させる」が基本の教育と社会構造なのかもしれないと、私は思うことがあるのです。
伝える側に「伝わらない」という「壁」ができる…これが発達障害の問題なのだろうと、私はそう思うのです。

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