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Episode 556 聞けない理由があるのです。

このアカウントで発達障害に関する記事を書き始めたのは2018年の9月のこと。
はじめは別のブログプロバイダを使っていたのですが、2020年5月にnoteに引越しをする都合で過去記事と向き合う機会ができました。
それで感じたのは「記事投稿から数年たった今だから思うこと」が、当時のままのものと、大きく変化したものの二種類がある…ということでした。
そんな思いを掘り起こしつつ、過去記事を読み返してはTwitterに投稿していたのです。

ここ最近も「そんなこと」を思う記事が出てきまして…。

旧プロバイダのブログに投稿された日付は2019年6月12日のこと。
この記事を読んで今思う気持ちが、このツイート。

元になるブログ記事を読み返して感じるのは、多くの「ASD×定型」のパートナーシップで話題になる、「分からなかったら聞いて欲しい」という定型側の「切実な願い」に応えられないASDの姿です。
どうしてこんなに「カンタン」なことができないのか…という大きな疑問は、多くの「ASD×定型」のパートナーシップの鬼門になるハナシです。

恐らくですよ、ここの根にあるものこそが「自分の意見の調整が難しい」という自閉の本質的な部分なのだろうと思うのです。

先日のnote記事で、私は社会性という仮面「ペルソナ」の話をしました。

この記事の中で、私は「教えてもらう」を拒む理由を

ツイートに表現した「対等な関係の欠如」を平たく表現するとすれば、「持ちつ持たれつ」「お互い様」という感覚の弱さ…ということでしょうか。
「あなたのやり方に従う」ということは、「私の意見を捨てないさい」ということとイコールではありません。
でも「私の意見を調整することができない」ASDの私は、自分の意見を完全に引っ込めて、あなた意見に同化することを自分自身に求めるのではないか…と。
ところが、私はあなたではありませんから、あなたの考えで私を全て置き換えることは出来ないですし、この状態は疲れます。
ですから、疲れを伴う「あなたの傘下」に入ることをできるだけ避けたい…となるワケです。

…と、説明しました。

「ペルソナ」と呼ばれる社会性を身に纏った「人格/パーソナリティ」があるとして、それは自分の「我」の尖った部分を折り曲げて融通する、摩擦を抑えるための手段だと思うのです。
お互いに尖った部分だけを折りたたむことで「あなたを尊重し私も尊重される」を可能にするのでしょう。
ところが、ASDの私はこの「ペルソナ」と呼ばれる社会性を作り上げることができなかった…。

定型のパートナーの感覚としては「教え教えられる関係」は、お互いに支え合う対等な関係なのでしょう。
そう思えるのは、「教え教えられる関係」で人格を侵害される心配がないことを無意識に理解しているからですよね。
そもそも人格を侵害しない為の「ペルソナ」なのですから、当然と言えば当然のことです。

その一方でASDの私は、「指摘される」ことを「自分の気持ちの調整ができない」という自閉的思考で跳ね返すことになるワケです。
「指摘される」とは、自分のやり方の「理に適っていない部分を示される」ことになるワケで、そこの部分だけを修正すればより良い状態に近づくことになるハズ…なのですが、「ペルソナ」の形成が弱い私は、指摘を受けた部分を「私の侵害」として受け取ることになるワケです。
そこには「教え教えられる関係」「お互い様」で人格を侵害される心配がない、という無意識の理解が欠如しているASDの姿がある…。

結果、「指摘される」「教わる」という、お互いの関係をより良くするための小さな行為が、「人としての尊厳の侵害」という重大な問題に発展する危険なものになってしまう。

2年前に「分からないでも良い」と指摘して、「分からないから教えて」と聞くことの重要性を指摘しながら、分からないが言えない、その一歩が遠い理由が上手く説明できなかったのですが、ようやく今になってその理由が見えてきたように思います。

改めて思う、自閉の本質。
「自分の意見の調整が難しい」ということの根の深さを感じるのです。

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