Episode 578 得意な理由が違うのです。
このnoteアカウントの中の記事では何度も言っているのですが、私は学生時代に歴史学を専門にしていたのですよ。
教育学部の学生だった私は教職に就く授業を受けながらも、どちらかと言えば歴史の課題と向き合うことが楽しく、教職には重要な対人コミュニケーションや心理学系のあれこれにあまり興味を示さず、資料とにらめっこの研究に重点が置かれていたのです。
それで、その歴史学っていうのは、思いの外「理系」な学問なのね…史実を捻じ曲げられない…という「融通の効かなさ」という点でね。
それは他の理系分野の研究と変わらないのですよ。
実験や文献などで得られた融通の効かないデータを最終的にどのように解釈するかは、結局のところ人間の意思なのですよ。
数字やデータはその解釈の根拠に過ぎない…もちろん、その数字やデータの信憑性は担保されるという条件の下でのハナシですけど。
提示される数字やデータの解釈をするに当たり、あなたとの関係で私の意見を調整する必要が無い…つまり、足利尊氏を逆賊と捉える忖度をしなくても良いという点において「具体的で客観的であることを求められる分野」がASD気質にフィットするワケですよ。
このことは前回の記事で話題にした通り、ASDの「ブレない分野の比較優位」ということで説明できます。
ただ…この考えは、ASD的な「受動傾向」との関係性の中で語られるワケです。
詳しくは過去記事を見ていただくとしてですね、ASDの人はこの「受動傾向」の人しかいないのか…と問えば、そんなことはないのですよ。
「私の気持ちのコントロールの困難さという自閉の本質」から発生するアウトプット表現が千差万別で、特定の形がない…だからこそ、目に見える傾向がグループ化され「受動」傾向の他に「孤立」「積極奇異」などのパタンが語られるワケです。
だから、ASDの「ブレない分野の比較優位」は絶対の基準にはならないワケね。
実際に「芸術分野に強いASDも多いよね」…って意見は多く、根拠の信憑性とかデータの確実性とかとは対極の分野にいるASDの方に対しての「ブレない分野の比較優位」は、どこをどのように切り取っても、全く上手に説明できる気がしません。
ところがですよ、芸術などの分野で独創性を遺憾なく発揮して活躍するASDの方を「私の気持ちのコントロールの困難さという自閉の本質」という視点から見ると、「なるほどその活躍は納得だ」という説明ができたりする…と、私は思うのです。
と、いうのも…。
受動型ASDというのは、あなたと私の関係を上手に調整できないから、私の意見を仕舞い込んであなた迎合するのだ…と、説明しました。
その一方で上手く調整できない私の意見に従って周囲との調和を求めずに突っ切る行動があるとすれば、それは正しく「積極奇異」タイプの行動です。
その自分を信じて突っ切る行動と、独創性が求められる芸術的な分野の相性を考えると…その驚くほどの親和性の高さを感じるのは私だけではないでしょう。
前からお話ししている様に、ASDの「○○型」というのは、その時によって何が現れて来るか変わる…と言うのか私の考えです。
同じ人の中でもひとつの型で固定されることはない…それは以前、私が「千と千尋の神隠し」に登場する「カオナシ」を題材にしてお話しした通りなのです。
つまりね、普段は大人しくあなたに迎合して自分の意見を言わない受動タイプと思われる人が、画材を前にした時に豹変する…はあり得るのですよ。
満月の夜の狼男みたいに、仮の姿を脱ぎ捨てて本能的な自我の赴くままに…。
もちろんこれは芸術的分野で活躍するASDを、ASD特性的にどの様に説明できるか…という実験的な仮説に過ぎません。
ただ、この仮説を考える過程で、「ブレない分野の比較優位」という比較的消極的な傾向からの得意の発揮もあれば、「自分自身がブレない」という積極的傾向からの得意の発揮もあるのだという理解には繋がった気はするのです。
「ASDは芸術家肌」とか「ASDは理系に強い」って漠然と言っている内容は、バラバラのことを言っているように見えて、意外とこんな事で繋がるなのではないか…と、そんなことを私は思うのです。