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ジキル博士とハイド氏は私

ほぼすべての日本人が、『ジキル博士とハイド氏』の内容を知っているのではないだろうか。私も、何歳に知ったかという自覚はないけれど、確かに読む前から結末を知っていた。

なので、本を手に取ったときも「これって結局○○の話だよね」と終始思っていたのだが、それに反して予想を裏切る奥行きの世界がページ上で展開していた。

『ジキル博士とハイド氏』は特定の題材にロマンを込めたエンタメ小説ではなく、全ての人が抱える悲哀と矛盾の話でもあったのだ。

Twitterで、私はこう書いた。

自分の中に多大なる怠惰と恐ろしい凶暴性を抑えつけているとき、それを解き放ちたいとは思わないか?良識など捨てて?
そんな話だった。

ジキル博士の中には、清らかで正しい生き方、社会に貢献し善行を積みたいという精神と、快楽をむさぼり残酷に振舞いたいという精神が同居している。

ジキル博士は、前者の「正しい生き方」でもって後者を抑圧しつづけた人である。

人類みんなそんなものだろうと言われたら確かにそうなのだが、一つハイド博士に特有の点がある。

それはジキル博士が「自分は『一点の曇りもない』善き人間だ」という命題しか受け入れることができなかったこと、そしてその理由が理想の高さ、完璧主義にあったという点である。

「誰しも怠けたい、人を傷つけたいと思うことはある。それでもいいじゃないか、生きていればそんなこともある」と思えたら、それはおそらく自然でバランスのとれた生き方になる(森絵都さんの『カラフル』にでてくる、ひろかちゃんだね。森絵都さん大好きです)。

しかし、自分の中にあるそんな享楽性を認めることができない人は、私は清らかな人間ですと嘘をつき続けるしかできない。それは、他人に対する嘘であり、自分に対する嘘でもある。

あなたはどうですか?たとえば脳裏をかすめたことはありませんか?知りもしない、幸せな顔をした人を蹴りたいと。道を尋ねてきた人を殴りたいと。転んだ人間を踏みつけたいと。無意識下にそう思ったことがないと言い切れますか。

では、これを書いている私はどうだろう?幸せな顔をした人を見て幸せに思うし、道を尋ねてきた人には経路を教えるし、転んだ人間には手を貸すだろう。

でも私は時にぶち壊してやりたい台無しにしたいと、おそらく無意識に、そして稀にはっきりと思っているはずだ。

そんな怖い話じゃなくても、あるよね。怠けたい、何もしたくない。ただただ虚栄(inanis gloria)、嫉妬(invidia)、怠惰(acedia)、憤怒(ira)、食欲(avaritia)、色欲(gula)、淫蕩(luxuria)に溺れたいと思うこと。

そんな享楽性と完璧主義から身の破滅を招いたのがジキル博士なのだろう。

全てのことが白黒つけられないのと同じで、人間はハイド氏にならないよう、そして時に小さなハイド氏になって生きていくしかないのだろう。



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