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知らぬ間に始まった恋は、知らぬ間に終わっていた

久しぶりに買ったタバコを見て、気づかないうちに自分が相当疲弊していたことに気がついた。

今年は人生で最も受難の年だったように思う。別に厄年でもなんでもないのだが、これを厄年と言わずしてなんと言おうか。もしも、これから先これ以上の苦難に満ちた一年が訪れるのだとしたら、私の精神は持たないはずだ。怖すぎる。

今年に入ってからいくつかあった人生最悪の出来事のうち、今回書くことは軽傷に過ぎないが、これまでの蓄積もあってかなり心にキテいるので、公の場に書くことではないけど、ここはnoteだし、適当に書き散らかそうと思う。

私は、この数年恋をするということを全く忘れていた。正確には、忘れていたというよりもする必要がなかったというほうがいいか。

長く連れ添ったパートナーがいたし、その人と一生を添い遂げるつもりでいたから他の異性に注意が逸れることもほとんどなかった。ほとんど、だけど。

しかし、色々と事情があってそのパートナーとの関係がうまくいかなくなり、もはや人生の一部と化していたその人と離別することは自分の体の一部を引きちぎられるような痛みがあった。今でもぽっかりと何かが欠けている感覚がずっと残っている。

一人になってからというもの、まるで長いトンネルを抜けた先の見知らぬ世界に足を踏み入れたような感覚に襲われることがあった。

これまでと見ている景色は同じはずなのに、物事の持つ意味合いが少しずつ変わってしまっているような不思議な気持ちだった。

時々パートナーを喜ばせるために訪れていた駅のケーキ屋もただの風景と化してしまったし、いつか行こうと話していた劇のポスターも紙切れにしか見えなかった。

逆に、これまでは道行く人々に対して何も関心がなかったのだが、独り身になると世の中にはこんなにも女性がいるのか、と驚いた。

そんなことに気づいてしまうのは、無意識に別の異性を探し始めているのかもしれないな、と思ったが、これまで街の記号のひとつでしかなかった人たちが急に何らかの意味を持ち始めたことがなんだか気持ち悪く、すぐに嫌気が差した。

プライベートでどんな悲劇があろうとも、仕事には行かないといけないので何食わぬ顔で出勤をするわけだが、ガソリンの入っていない車を無理やり動かしているような感じで最初のうちはかなりギクシャクしていたと思う。

その頃は周囲の人に気を遣うのも面倒くさく、愛想笑いや気の良い相槌も打たなくなって、気づけば無表情のまま一日を終えることが多くなった。今考えれば社会人失格だが、当時は本当に余裕がなかった。

そんな態度を取っていれば徐々に周りも私と距離を置くようになるのだが、一人だけ積極的に話しかけてくれる子がいた。

その子の話し方は飾り気がなく、こちらに気を遣うわけでもなく、いつも自然体だった。私もフラットな雰囲気で話すことができ、少しずつ心がほどけていくのがわかった。

良くも悪くも人からよく見られようとしないその子は、自身のプライベートなこともあっけらかんと話し、失恋しただとか恋人の作り方がわからないだとかのエピソードを割りと生々しく伝えてくることが多かった。

私も普段は聞けないような異性の本音や悩みを聞けるのが楽しく、よく二人で仕事をサボって一時間ぐらい話し込んだりしていた。

それから半年ほどが過ぎたある日、その子が「今年のクリスマスは一人かー。やだなー」とぼやいていたので、私は「まだ時間あるから大丈夫だよ」と言った。その子は「また無責任なこと言って」と笑った。

その後すぐに社内で業務配置の変更があり、私とその子は別々のフロアに配属されることになった。以前のように仕事をサボって話し込むことも少なくなり、お互いの近況を知る機会も減っていった。

ある日、その子が突然ヘアスタイルを変えて出勤してきた。

冗談で「好きな人でもできたの?」といつものようにからかうと、「そう、彼氏できました」と満面の笑みで返してきた。急な展開に少し驚いたが、私は素直に祝福し、その子も「ありがとう」と嬉しそうだった。

それから以前のように二人で仕事をサボって色々話し、話し終えた頃には幸せをおすそ分けしてもらったような感覚で次は自分が頑張らねば、と思った。

仕事が終わり、帰路につくと電車の中でふと自分の感情に違和感があるのに気づいた。最初のうちはとくに気にしていなかったが、そのモヤモヤは少しずつ大きくなり、家に帰る頃には呼吸が荒くなるほどになった。

玄関のドアが閉じて一人きりになった時、これまで抑えていたものが溢れ出すような感覚があり、しばらくその場に立ち尽くした。でも、これがなんの感情なのか分からなかった。

食欲もわかず、なんのやる気も起きなかった。無理やり寝ようと思っても一睡もできなかった。真夜中に遠くで響くバイクのエンジン音を聞きながら、私はようやくその子に恋をしていたのだと気がついた。

自分が恋をしていることに気づかない、という話は聞いたことがあったが、まさか自分がその状態に陥っていたとは思ってもみなかった。

一度そのことに気づいてしまうと、これまでのその子とのエピソードを思い出すたびに強く胸が締め付けられた。心臓を直接握られているかのようだった。

このままではどうにかなってしまいそうだったため、コンビニへ行き、4年ほど辞めていたタバコを買って戻ってきた。

懐かしいタバコの香りを嗅ぐと、様々な思いが洪水のように溢れ出て、自然と涙がこぼれた。気づかぬうちに失恋をしてしまっていたことだけでなく、今年に入ってからの色々な出来事が頭をよぎり、自分の心がいかに疲弊しているのかに気づいた。

その後数日は再びゾンビのような生活を送っていたが、いつまでもうじうじしている自分に腹が立ち、むしろ人の幸せを願えるような人間になろうと決心した。

それからは、職場でその子に会っても自然に振る舞うことができるようになったと思う。

知らぬ間に恋が始まり、知らぬ間に恋が終わっている。

人生で何度も経験できないであろうこの出来事を忘れないように、ここに書き記しておこう。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。