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【連載小説】こころの檻は二度開く⑦

【これまでのあらすじはこちら↓】

 男の腕は思ったよりも細く、洸の力でも振り払うことができた。男は面食らったような顔をしたが、すぐに洸を睨みつけた。

「なにお前?こいつの彼氏?」
「違います」
「じゃあ関係ねぇだろ。陰キャは引っ込んでろ」
「彼氏じゃないですけど、彼女嫌がってるじゃないですか」
「あ?だからお前には関係ないの。痛い目見ないとわかんね?」
「女性を無理やりナンパするなんてダサいで・・・」

 洸が言い終わる前に男の拳が顔めがけて飛んできた。気づいたときには空を見上げていた。痛みはそれほどなかったが、殴られたということだけは認識できた。

「おい、向こうで喧嘩やってんぜ!」

 遠くの方で声が聞こえた。どうやら洸が殴られる場面を見ていた人たちがいたらしい。男は洸のことを殴り足りない様子だったが、人目を引いてはまずいと思ったのか、「覚えてろよ!」とありきたりなセリフを吐いて路地の奥へ消えていった。

 女のほうを見ると、洸を見たまま立ち尽くしていた。無理もない。変なナンパに絡まれて、さらに助けに入った男が目の前で殴られたら混乱するに決まっている。冷静になった途端、じわじわと恥ずかしさが込み上げてきたため、洸はとりあえず女に声をかけることにした。

「大丈夫ですか?」

 女はなにも答えない。よく見ると体が震えているのが分かる。よほど怖かったのだろう。とりあえず彼女を救えてよかった、と洸は胸をなでおろした。すると、女がこちらへ駆け寄ってきた。

「これ、よかったら」

 差し出されたのは花柄のハンカチだった。その花の柄はアサガオのように見えた。ハンカチを渡されたことで、洸はようやく自分が鼻血を出していることに気づいた。

「ありがとうございます。でも、血で汚れちゃうんで使えません」

 洸はそう言ってハンカチを返したが、女はそれを受け取らなかった。そして、「はじめてじゃないから。こういうの」と言って走り去っていった。どういう意味かは分からなかったが、こういうナンパには慣れているという意味なのだろうと勝手に解釈し、洸は自分のバカさ加減に苦笑した。今日はさんざんな日だった。

 夜だというのに、空にどんよりとした雲が漂っているのがよく見えた。洸はなぜ自分がこんなことをしたのか考えた。女性が助けを呼ぶ声が聞こえ、それで足を止めた。そのまま通り過ぎればよかったのに、なぜかそうはならなかった。まるで画鋲で固定されたかのように、女から目を離すことができなかった。そこからは体が勝手に動き出していた。

 さきほど手渡されたハンカチを見る。走り去るときの彼女の横顔が思い出された。途端に胸に鈍い痛みが走る。しばらく感じたことのない感覚。これは、もしかして、と洸は思ったが、すぐに頭を振った。他人に興味のない自分がそんな感情を抱くわけがない、とため息をつく。

 遠くのほうでパトカーのサイレンが聞こえる。急に空気が冷たくなってきた。これから雨が降りそうだ、と思った矢先にぽつりぽつりと雨が降ってきた。傘は持ってきていない。やれやれ、今日はさんざんな日だ。さきほど殴られた場所が今になって痛んできた。

 とにかく、このハンカチは持ち主に返さなきゃならない。

ーーーーーー

「なな、なんだとう!?それは一目惚れというやつじゃあないか!」

 智は周囲の目など気にせず出せる限りの大声でそう叫んだ。

「やめてくれよ。たぶん勘違いなんだよ」
「いやいや!そんなことはない。高木洸くん。それは恋だよ。間違いない!」

 洸はこの人物に昨日の出来事を話したことを激しく後悔した。昼休みに食堂でパンを食べていると、智が申し訳無さそうにこちらに近づいてきた。どうやら昨日の合コンがうまくいかなかったことに責任を感じているようだった。しかし、洸の顔の傷を見るなり、しつこく理由を問いただしてきた。

 何も答えないでいると、智は勝手に話を膨らませていき、最終的には洸が暴力団にさらわれて借金を背負わされたという話になっていた。どういう理屈でそうなったのか理解できなかったが、智は本当にそう信じているようだった。

 智が騒いでいると、周囲の人がこちらをチラチラと見てなにやら話をしはじめた。智はさらにヒートアップし、冷静に考えればありえない物語をいくつも創作しては自分でそれを信じ込んでいた。洸は周囲からの目線と智の執拗な追求についに折れ、昨日起こったことの顛末を話したのだった。

「高木洸くん。その恋は必ず成就させないといけないよ」

 智は急にまじめな顔をして言った。洸は「だから恋じゃないって」と否定したが、智の耳には入っていないようだった。それから智は昨日の女にどうやったら再び出会えるのかを考え始め、「昨日の場所にもう一度行ってみたらどうだ?」と提案してきた。洸もそれは考えたが、一度怖い目に遭った場所には戻りたくないのが人情じゃないだろうか、と思った。

「いやしかし高木洸くん。もしかしたらそれは大切なハンカチなのかもしれない。見たところ古いデザインのハンカチだから、おばあちゃんの形見とかかもしれないぜ?」
「どうかな。もしそうだったら昨日返そうとしたときに受け取ったはずだけど」
「きっと気が動転していたんだよ。今日、昨日と同じ時間帯にその場所にいけば必ず会えるさ」

 智の強引な説得に洸は渋々その提案を受け入れることにした。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。