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月曜のソーシャルディスタンス

月曜らしい澄んだ朝だった。私は起き抜けに窓を開け、ひとつ深呼吸をする。かすかな草花の香りが鼻を通り抜ける。目の前の公園では老人たちが元気にラジオ体操をしていた。

テレビをつける。「非常に危惧すべき感染規模です」といつもどおりの平凡なニュースが流れている。コロナはすっかり私たちの日常の一部になった。台所にしまわれたコーヒー豆や読みかけの小説、電車の到着を知らせるアナウンスと同じようなものだ。

はじめは「殲滅せよ!」と額に血管を浮かばせ息巻いていた人類だが、次第に「うまく付き合っていくしかないよね」という悟りムードになってきているから、そのうちインフルエンザやおたふくかぜのような位置づけになるだろう。

コロナが流行したことで、私たちの社会にはソーシャルディスタンスという新ルールが追加された。

これはhspな私にとっては非常に前向きな神ルールだった。もともと満員電車で他人と肩がぶつかったり、渋谷のスクランブル交差点でサーファーのごとく人の往来を見極めてうまくすり抜けることに神経を削っているような性質だったから、現在の”人がまばら”という状況は「ストレスフリー!!」と全裸で叫びだしたくなるような快適さだ。

そんな快適なソシャディ生活を送っていると、人と人との距離感について考えることがある。それは物理的な距離感ではなく、心理的な距離感だ。

基本的に限られた人しか信用しない私は、もともと心のソーシャルディスタンスの達人だった。少しでも感情の感染が生じそうな距離感に他人が入ってきたら、「密ですよ!」と追い払うかまたは自分から走って逃げた。

適度な距離感を保つことで、反対に人への興味も保ち続けることができる。これは私の敬愛する谷川俊太郎先生から学んだ人生訓だ。

しかし、世間にはエヴァの使徒のごとく人のATフィールドを粉砕してくる輩がいる。そしてそういう輩は自分のATフィールドも誰かに壊してほしいと願っていることが多い。

つまり人とべったりくっつくような関係性を求めているわけだ。別にそれが悪いことだとは思わない。むしろ他人に心を開き、あるいは開かせ交流を深めるのはいいことだと思う。

人見知りだから、hspだから、と過剰なソーシャルディスタンスを取っていた私には眩しい限りだ。

だから、私は彼らを見習おうと思う。相手のことなんて気にせず、自分の主張を訴え「お前はもう仲間だ!」と巻き込んでいく。そんなリア充に私はなる。

そう興奮して朝のシャワーから上がると、LINEに通知が来ていた。アプリを開くと10年以上前に同級生だった仲良くもなかった人から「久しぶり!東京にいるんだって?今度遊ぼうよ」とメッセージが来ていた。

私は遠くで聞こえる小学生の笑い声に耳を澄ましながら、その同級生との思い出をひとしきり探り、そしてそっとブロックすることにした。

こんなご時世だから、やはりソーシャルディスタンスを守るのは大事なことだ。何事にも適切な距離感というものがある。今日は一週間のスタートである月曜だ。ほどほどに頑張って生きていこう。

大事なお金は自分のために使ってあげてください。私はいりません。