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What I do(なにをするか)より、What I am(何であるか)

「愚者にとって老年は冬である。賢者にとって老年は春である」(ユダヤの格言)

解説

・人は本質的には「なにをするか(What I do)」よりも、「なにであるか(What I am)」の方が重要であるが、現代社会では「なにであるか」よりも、「なにをするか」ということを尊んでいる。

・その結果として、活動的であることや若いことが良いとされている。様々な広告を見ていても、若さと活動的であることに、過度な称賛が送られている。壮年期に入っても、老年に達しても、若いことや活動的であることが求められている。若さが強調される文化なのだ。

・このような社会では老年は敗北であり、冬であるとみなされる。しかし人は必ず老いるので、この社会は「必ず敗北が待っている社会」ということになる。それはなんという過酷な社会だろうか。もしこの格言が正しければ、我々は今日「愚者の社会」に住んでいると言えるだろう。

・人はみな年をという宿命を持っている中で、若いうちにはなにをするべきだろうか。古代のラビ(ユダヤ教の指導者)は、それは「自分がいずれ年をとり、老年に入ることを心理的に準備すること」、即ち「老年に向かって自分を創造していくこと」だと言う。こうすることによって、若い頃から老人を大切にするようにもなる。

・老年は、恐れるべきではない。若い頃から老人を本当に尊んできたものだけが、自分が年老いたときに自尊心を持つことができる。悲惨な老年を送りたくなかったら、老人を敬うことだ

「トケイヤーのユダヤ格言集」(ラビ・M. トケイヤー著、三笠書房)より

考察

「なにかをすることが良いこと」とされているこの社会では、体力と知力と時間のある若者は、当然のようにその若さを誇ります。その若さは失われることが決定していますが、多くの若者はその事実を見ないようにと、目を背けているかのようです。

また、ある若者は老いを恐れながら生きていきます。それは老いることがまるで後ろめたいことのよう。そのような若者は間接的に老いを否定しています。彼ら彼女らは、心理的な準備を全くせずに老いを迎えることになるでしょう。そして、かなり高い確率で、無力感や虚無感に苛まされる老人になるでしょう。

若いことや老いていることはただの事実であって、本質的にはそれ自体で良いことでも悪いことでもありません。どれだけ若く活動的で多くのことを成し遂げても、正しいものでないのであれば、何の意味もありません。この世界は「本質的ではない”What I do”に過剰に気を取られ、本質的な”What I am”を蔑ろにしてしまう」というジレンマに陥っていると考えます。

僕は若いですが、この若さを誇りとしません。それ自体は本質的な良いことではないからです。また、多くのことを成し遂げることを誇りとしません。それは僕が成し遂げたのではなく、「僕を通して物事を成し遂げる方」が成し遂げることだからです。

僕が誇りとするのは、摂理の源である存在を知ることを許されたという恵みであり、そのことを人々に分かち合う働きの一部を担うことを許されたという恵みです。この誇りは、老いとともに減ることはありません。

歳を重ね体が衰え、地上での残された時間が少なくなっていくことに対し負の感情を抱くことも、若い時代の栄光にすがることも一切なく、日々平安と喜びと誇りを持って生きる思慮深い老人ほど、美しい存在はいないと思います。このような老人になれるよう、日々を丁寧に生きていきたい。そう思わされた格言でした。

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聖書には、正しくあるものには知恵が与えられると言う約束があります。その生涯を正しい者として過ごした結果、知恵が溢れるほど与えられ、その知恵をもって周りの人を大いに祝福するような人。僕はそんな老人を目指したいです。

聖書の言葉

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若く、様々なことができる体力と時間があると、自己中心的で刹那的な生き方をしがちなものです。そして、虚しいもののためにその体力と時間を使ってしまいます。若いときにこそ真理を見極めようと努め、人生で本当に大切なことに対する洞察を深める努力をするべきである。この聖書箇所は、そのように勧めます。

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若者は、このことを肝に命じる必要があります。すべての許されている事柄の中から、絶対的な基準を持って益となることを選び、実行していく必要があります。

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知恵も力も富も、誇るべきではありません。それは、自分で手に入れたわけではないから。そして、それはいずれ廃れていくものだから。失われていくものを誇りとするなら、その人の誇りはなんと脆いことでしょう。人は、永遠に残るものを誇りにするべきです。

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正義の道を生き切った人が頭に戴く白髪は、美しい栄光の冠です。この栄光を目指して日々を生きたいです。

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神の視点から見ると、人が年をとっていることなどは、なんの問題でも障害でもありません。聖書にも、老人になってから用いられた人の例がいくつも記されています。主の霊に触れられた者には、大きな希望とビジョンが与えられ、大きな働きをする働き人となる。その人が若者か老人かには、全く関係がありません。


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