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『雨に打たれて 3』

※BL小説


 あかりはブラコン気味のところがあって、付き合うようになってすぐに兄を紹介された。
「お兄ちゃんは友達づきあいもあまりしないで本ばっかり読んでいるから、渉と仲良くなってくれたら嬉しいな」
 なんて言って、半ば強引に兄を同席させた。俺と兄が打ち解けると、とても嬉しそうな顔をしていた。
 兄に甘えていたあの無邪気な笑顔が、こんな場所にしかたどり着かないなんて。ささいな日常の出来事の延長線上に待ち受けている悲劇を知ってさえいたら、俺は決してあかりの家に近づかなかったのに。

 あかりの兄は、優しく穏やかな人だった。感情の起伏が緩やかで、学生の俺からするとずっと先の方を歩いている大人に見えた。
 あかりに引っ張り出され、三人で一緒に出かけることも多かったが、それ以外は俺達に気を遣っているのかそっとしておいてくれる。時折俺達に食事をおごってくれたり、出張先から土産を買ってきてくれたりもした。
 兄弟がいない俺には、そんな気遣いが申し訳なくて、それ以上に胸の奥をくすぐられるような嬉しさがあった。
 俺にも兄ができたと思った。

 だが、大人だとばかり思っていた人の見えにくい感情の起伏を感じ取れるようになった頃から、俺の中の兄を慕うような気持ちが微妙に変化していった。
 不意打ちをされると少年のような表情を見せたり……そう、この人は今もそんな顔をしている。驚くと、子供みたいな顔になって、一層あかりに似て見える。
 世間ずれしていないところを知るうちに、年上のこの人には女にはない潔癖な可愛げのようなものがあると感じることが多くなった。
 あかりの家族も、この人を落ち着いた真面目な息子であり兄だと見なしているようだ。この人のくみ取りにくい感情の揺れを、俺だけが気付いたと思う瞬間が何度もあって、優越感めいたものを感じた。
 血の繋がりがなくとも、自分はこの人の理解者だと思いたかったし、心の中ではそう自負していた。
 休日に家を訪ねると、廊下を通っていく姿を見かけたり、部屋に顔を出して挨拶してくれるのが、楽しみになった。

 そうして家に通ううち、俺はこのあかりの兄が、気になってたまらないようになっていった。繕わない可愛さだけではなく、ふと立ち上がった時の身体の線や手の仕草、いつも綺麗に整っている襟足の清々しさなどに、あろうことか強い色香を感じるようになったのだ。
 こうなってみると、これが単なる兄的なものへの憧れではないのだと俺にも分かった。
 俺にできることは、できる限りあかりの家には近づかないでいることだけだった。時間を稼いでいれば、気の迷いからもいつかは覚めて、全てが以前通りに戻れる日が来る。そう思いたかった。
 だが、会わないことで醸成される想いがあるのだということを、俺は知らなかったのだ。

 俺はあかりといる時も、ぼんやりしていることが多くなったらしい。よく「話を聞いてなかったでしょ」と責められるようになった。
 ふとした瞬間に、あかりの顔と彼女によく似た面差しが重なる。似てはいるが化粧のない、涼やかな細面に眼鏡を掛けたもう一つの顔を、思い出すまいとしても思い浮かべてしまう。
 そしてあかりは、俺があかりを見ていないことにも、あかりに向けた目で他の顔を見ていたことにも、気付いていた。

 あの日、前日に激しい言葉で俺を罵倒したことなどなかったかのように、吹っ切れたような顔をしていたあかり。俺を呼びだして、土砂降りの雨の中海を見に行こうと誘ったときにはもう、彼女は俺と一緒に死ぬことを決めていたのだと思う。
 俺だけが、生き残ってしまった。彼女が本当に殺したかった俺の恋を握りしめたまま、生き延びてしまった。
 そして、この人への未練が断ち切れずに、今日もまだトンネルを抜けた急カーブでハンドルを切ることができずにいる。


 目の前で、次第に傘を持つ手が震えていく。最後に傘は濡れたコンクリートの上を転がった。
「……違うよ。渉くんのせいじゃない。あかりが死んだ日の一月程前のことだ。あかりに言われたんだ。『お兄ちゃんがいくら渉を好きでも、絶対に渉は渡さない。とられるぐらいなら渉を殺してあたしも死ぬわ』って。僕は君が好きだった。出会った日からずっと、好きだったんだ。あの子は、それに気付いていた。……日記には、そのことが何も書かれていなかった。ただ、生きているのに疲れたと書いてあっただけだ。あかりは死んでもそのことを周りに知られたくなかったんだと思う。それを言い訳にして、僕は口を拭って今日まで……」
 酷く震える手が顔を覆っている。俺はその手首をつかむ。
 それでは、罪は二人のものだったのだ。

 あかり。
 お前を愛していた二人の男が、お前を殺した。それなのに、罪深い俺は、罪を共有していたことにさえ幸福を感じてしまうのだ。
 引きずるように部屋に連れ込んだ人を、俺は抱いた。あの人も抵抗しなかった。
 俺達は共に死ぬべきだろうか。それとも、罪を抱えたまま、生きるべきだろうか。
 分からない。分からない。
 雨に打たれて鮮血の色を甦らせていく心の染み。俺達にできるのは、同じ女を思いながら、同じ染みを持つ胸を重ねて抱き合っていることだけだ。
 窓辺では、いつまでも雨だれの音がしていた。俺達には、それが天から下された断罪のように聞こえた。

〔了〕

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