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『我が名を呼べ、そして祈れ 2』

※BL小説


「お前の名は?」
「レネ」
「楡屋敷の者だな」
 レネは驚いたように目を瞠った。
「僕の家をご存じなのですか」
「あの見事な春楡の木には、よく登ったものだ」
 男の声に懐かしむような色が混じった。
「それなら、その屋敷はうちではありません。家のシンボルツリーだった大きな楡の木は、曾祖父が亡くなる前に落雷で倒れたそうです。曾祖父は生前その木をとても愛していて、倒れた楡で自分の棺を作らせたと聞いています」
 男はしばらくそれについて考えているようだった。

「それで、お前は何故この教会に来た?」
「夢でその肖像の青年を見たのです。その夢の中で、この教会に呼ばれたような気がして」
「会いたいのか、その男に」
「はい。会えるものなら、一目だけでも」
 レネの声には、夢で見た青年に恋い焦がれる熱い想いが隠しようもなく滲み出ていた。
「……僕はもっと前に生まれるべきでした」
「もしも時代を遡ってその男に会えるとしたら、お前はどうするつもりだ。その身体を投げ出すのか? 自分の血と肉と魂を、その男に差し出すのか?」
「分かりません。でもきっと僕は、その人の求めには抗うことなどできないでしょう」
 神の御前で背徳の言葉を口にしてしまったことで、レネは純血を失ったように感じ、涙を流した。
 フードをかぶった男が一歩レネに近づく。
「レネ。お前は何とユーリに似ているのだろう」
「ユーリとは誰です? 僕の曾祖父もユーリという名だった。祖父がいつも僕のことを曾祖父に生き写しだと言っていた……あなたは誰ですか?」
 名状しがたい怖れを感じて、レネは男を見つめた。

 その時風が吹き込むはずのない教会の中に、強い風が巻き起こった。風は螺旋を描いて上昇しながら、男のフードを払った。
 男の整った白皙の中で、凄艶な眼差しに紅く焔が灯っている。その顔は紛れもなく、レネが恋い焦がれている肖像画の青年のものだ。
 呆然と男を見つめて、レネは曾祖父にあてた手紙の差出人の名を唇にのぼらせた。
「ゴットフリート」
 その時、ごうっという唸りと共に風が起こり、濡れ艶の黒髪を舞い上げた。男の身体はそれ自体が発火しているように紅く輝き、あたかも紅蓮の炎に包まれているように空気がちかちかと揺らめいた。
「我が名を呼んではならない。お前の曾祖父と同じ過ちを繰り返すのか、レネ。私とユーリは幾度物置小屋で睦み合ったことだろう。幾度私は楡の木を伝って彼の閨へ忍んでいったことだろう。血の接吻によって彼が衰弱するのに耐えられず、私がこの地を立ち去るまで逢瀬は続いた。私はユーリを同族にするより別れを選んだのだ。レネ、我が名を呼び口づけを受け入れたなら、お前の心は生涯私に囚われることになるのだ。お前の曾祖父と同じように」
 レネの体はむせかえるような官能に溺れるように、わななきながら男の腕の中に沈み込んだ。男がレネの首筋に口づけると、レネの唇から熱い吐息が漏れる。
 男が首筋に噛みつくように口を開いた時、鋭く尖った犬歯がキラリと光ったが、男はそのまま口を離した。
 そして自分の黒絹のマントをレネに着せかけた。重い絹のとろみのある肌触りがレネを包む。
「あと3年。お前がどうしても私を忘れることができないのなら、その時は我が名を呼べ。いつでもお前の祈りは私に届くだろう。その時はもう逃しはしない。私の接吻を受け、私のものになるがいい」

 男は来たときと同じように長靴の音を響かせて、教会を立ち去った。重い扉が閉まる音が、教会の中に木霊する。
 後に残された少年は、自分が決してあの青年を忘れないことを既に知っていた。3年の後、自分はきっとこの場所であの名を呼び、神ではない者に祈るだろう。
 少年は唇をついて出てしまいそうなその名前を、心の中で何度もつぶやいた。

〔了〕

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