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『シャイニー・タイニー・ドロップス 1』

※BL小説



 薄暮の街では、街路樹にもショーウィンドウにも、星くずのようなイルミネーションが何千何万と煌めいていた。数え切れないほどの光の粒をまとった並木道は、大気中にまで光の粒子が埋め込まれているようだ。降りはじめの軽い雪が、聖夜のペーブメントや、人々の髪や、俺の肩にふわりと舞い降りては消えていく。
 だが俺は、駅前を飾る二階建ての高さのものすごいツリーにも、赤い衣装を着せられて笑っているフライドチキン屋のおじさんの人形にも、一秒以上視線をとどめることはなかった。目をやる余裕がなかったという方が正しい。何しろ視界を塞ぐほどの大荷物を抱えていたのだ。俺は小さな雲みたいな息を吐いては、ただひたすら好きな人の家を目指した。

 恋人のマンションの鍵を開ける頃には、俺は息も絶え絶えになっていた。両手いっぱいどころか、背中にも山盛りだった重い荷物を下ろしたときには、手提げの紐の形に痕がついた掌がすっかり痺れてしまっていた。
 一休みしたいところだが、こうしてはいられない。三木(みき)さんが仕事から帰ってくる前に、全ての準備を整えなければならない。
 三木さんの驚く顔を想像して、笑いがこみ上げてきそうになる。
 いや、笑っている暇はない。第一、誰もいないのに一人でにやけているなんて間抜けすぎる。俺はまず手始めに一番大きい袋を解いて、中に入った裸のツリーと沢山のオーナメントを取りだした。

 ミッドナイトブルーのテーブルクロスを掛けたセンターテーブルの上に、空色のランチョンマットを俺と三木さんの分で二枚敷いた。その上に銀色のナイフとフォークを並べる。
 俺は料理ができないから、前に三木さんが美味しいと言っていたデリをデパートで買ってきていた。それを彩りよく皿に盛りつけていく。最後にテーブルの真ん中に、俺の掌ぐらいの小さな二人用のクリスマスケーキを置いてから、俺はいつの間にか止めていた息をやっと深く吐いた。

 とりあえず、できることは全てやった。俺は部屋をぐるりと見回して、自分の仕事に満足する。
 あと少しで無機的になるというギリギリのところまでシンプルな三木さんの部屋は、今や俺の手によってクリスマス仕様に飾り付けられていた。
 濃淡のブルーとシルバーとクリスタルだけに統一した、ボール形や星形や雪の結晶の形のオーナメント。それらをつり下げたツリーは白で、ブルーが良く映えてとても綺麗に見える。
 窓辺に飾った白いシクラメンの鉢にも、夜空みたいな深いブルーのベルベットのリボンを巻いた。テーブルクロスも、玄関に下げてきたリースも、気に入った青色のものが見つかるまで足を棒にして探したものだ。

 三木さんの好きな色、そして三木さんに一番似合う色だ。
 三木さん、喜んでくれるかな。
 玄関に着いたとき、扉に下がっているリースを見て、三木さんは俺の訪れを知るだろう。部屋が様変わりしているのを見て、ちょっとビックリした顔をするかも知れない。俺の顔を見て、いつもの優しい落ち着いた声で「ただいま」と言ってくれたらいいなと思う。
 そこまで考えたら、また顔がにへらっとだらしなく緩んでしまった。

 俺はこの日の資金を稼ぐために、コンビニバイトを頑張った。店長の渋い顔とバイト仲間の冷やかしにも耐えて、イブの今夜から明日に掛けての休みを勝ち取った。
 10歳年上の三木さんから見れば、きっと俺のやることなすこと子供っぽいのかも知れないけど、待ちに待った今宵、はしゃぐなと言われても無理な話だ。
 何しろ今夜は、俺と三木さんがつき合うようになってから、朝まで一緒に過ごせる初めてのクリスマスなのだ。

            * * * * *

 三木さんとのことを、どんな風に話し出したらいいだろう。
 全てが始まったのは、そう、去年の夏のことだ。
 その日、俺は書店の棚を真剣に見上げ、つま先立ちの限界に挑戦していた。
 高校三年生、受験勉強のまっただ中だった俺は、英語の問題集を探そうと街で一番大きな書店に来ていた。
 目指す問題集は最上段にあって、お世辞にも背が高いとは言えない俺は、あと3センチ背が届かなかった。問題集に触れるのだが、つまめないのだ。
 踏み台を使うのは微妙に悔しいなと思って、あとちょっと、と無駄に頑張っていたら、俺の頭越しに誰かの手が伸びてきて、俺の指先が触れている問題集を引き抜いた。
「あ……」
 それ、俺が欲しかったのに。
 振り向いた俺に、はい、と問題集を手渡してくれたのが、三木さんだった。
 うだるように暑い夏の日曜日の昼下がりだった。三木さんは群青色の麻の半袖のシャツを着ていた。そんなことを良く覚えているのは、彼が俺のバイト先の常連のお客様で、見慣れたスーツでない普段着姿が物珍しくて、ついまじまじと見つめてしまったからだ。


 俺はその頃、叔父がやっているバーでバイトをしていた。俺の高校はバイト禁止だったけど、バイクを買う金を貯めるために、店では高校生であることを伏せて働いていた。
 叔父には、「歳とバカがばれるから喋るんじゃないよ」と言われていたので、黙ってコップを磨いたり皿を洗ったりカクテルを作ったりして、客が話しかけてきても曖昧なごまかし笑いを浮かべていた。
 叔父が俺に客と喋るなと言ったのは、叔父の店が大人の店であると同時に、ちょっと特殊な店だから。男だけしか来ない店、つまりはゲイバーなのだ。若い俺に客が目を付けたら困ると言うことで、叔父は随分気を揉んでいたらしい。
 男に興味はなかったが、店の常連さんは感じのいい人が多くて、店で働くのは楽しかった。そりゃ中にはやらしいことを言ってくる奴がいないわけではなかったけど、叔父が睨みを利かせていたし、怖いこともなかった。

 三木さんは、そんな店の常連客だったから、多分「そっちの人」なんだろうなぁとは思っていた。でも、三木さんからは、どんな紳士的なお客さんからも滲み出ている「あわよくば」みたいに粘ついたものは全然感じられなかった。いつもカウンターの隅で静かにお酒を飲んで、穏やかな声で少しだけ叔父と話し、ある程度の時間が経つと帰っていく。
 背が高くて、ハンサムで、いつもスーツ姿で、眼鏡がとてもよく似合っていた。優しくて頭が良さそうな大人の人、という印象だった。
 叔父は店では「毬江(まりえ)」っていう名前で通っていて、女みたいな喋り方をしているけど、それはあくまで仕事用。本当は口が悪いし怒ると結構おっかなくて、戸籍の上では剛という男らしい名前だ。
 そんな内部事情を知っていてさえ、甥の俺から見ても、叔父はそんじょそこらの女よりずっと綺麗だった。だから、もしかして三木さんは、叔父が目当てで通っているのかな……なんてことを思ったりした。
(俺に対して淡々としているのは、俺に興味がないからなんだろうな)
 と思うと、男に興味なんて持たれるのは困るはずなのに、何だか物足りないような気がするのが自分でも不思議だった。
 そうこうするうちに、受験勉強に本腰を入れなくてはならなくなって、バイトは夏休み前に辞めてしまった。


 夜の店でのスーツ姿しか見たことがなかった三木さんが、昼間の本屋さんでブルーのシャツを着て目の前に立っていることが、何だか信じられない。
 恥ずかしいけど正直に言うと、三木さんがあんまり格好良くて一瞬見とれてしまっていた。俺に問題集を差し出した三木さんは、固まってしまった相手に困ったのか、ちょっとはにかんだような顔で微笑みかけてきた。

 その表情を見た瞬間、俺の胸の中にある小さな泉に、キラキラ光る群青色の小さな雫が、一滴落ちた。
 波紋がぐんぐん綺麗な同心円を広げていくにつれて、世界が色を変えたように甘く潤んでゆく。
 俺は、大学に入ったら早速彼女を作りたいと思っていた。誰でもいいから初体験なんていうのも早く済ませてしまいたいと思っていた。男には全然興味なんかなかった。
 それなのに俺は――その瞬間、深い深い恋に堕ちた。

 仕事用の本を探しに来たという三木さんとどうしても別れがたくて、喫茶店に俺の方から誘った。
 俺は、その時目の前のひとに激しい吸引力を感じはしたが、自分が恋してしまったということには気づいていなかった。それどころか、そのことに随分長いこと気づけずにいた。それが良かったのだろう、もし早い段階で自覚していたら、自然に振る舞うことができなくなっていただろうから。

 三木さんは、靴の会社でデザインの仕事をしているということだった。俺が高校生だと知って、ちょっと驚いたようだった。年齢も境遇も似ていない俺達なのに、妙に話が弾んだのは、年長の彼がが上手に俺の話を引き出してくれたからだと思う。
 三木さんが学生時代に2年間アメリカに留学していたという話になったとき、俺はダメもとで英語を教えてくれないかと頼んでみた。苦手教科を克服したいという気持ちもあったけど、それを口実に三木さんとの縁が続けばいいと思っていたのだと思う。

 微かなためらいの表情を見て、ああ、しまったと思った。どうやって断れば俺を傷つけないか考えてくれてるんだろうな。気を遣わせてしまったことが申し訳なかったし、こんなことを言ったせいで鬱陶しく思われたんじゃないかと焦った。
 今のは無し、と言おうとした俺が口を開きかけたとき、
「僕で良かったら」
 控えめな口調で三木さんが言った。その返答に驚いてしまった俺は、思わず、
「うおぉ……やったあ」
 と言ってしまった。
 それを聞いた三木さんは、にっこりと笑った。
 見ている俺の胸がきゅっとするような、世にも優しい笑顔だった。

 そんな風にして俺達は始まった。
 三木さんは約束通り英語を教えてくれた。落ち着いた声で発音される英語が耳に心地良くて、苦手だったヒアリングがいつしか好きになった。
 勉強ばかりでは息が詰まるからと言って、夏祭りにも連れて行ってくれたし、一度遊園地にも行った。秋には水族館にも行った。

 勉強がますます忙しくなると、遊びに行く時間もなくなっていったけど、その代わりに、日曜と水曜の予備校の帰り道にマンションに通った。扉を開けると、三木さんと温かい料理のいい匂いがいつでも俺を待っていてくれた。
 俺が参考書と問題集と格闘している横で、三木さんは絵を描いたりPCに向かったりしていた。会話もなく、二人の間にはサラサラ走るシャーペンの音やキーを叩く音の他には、ただ更けていく夜の静寂が横たわっているだけ。それでも、そこには確かに温かなものが流れていた。

 週に二回の温まった部屋と手料理。勉強に疲れた俺にさり気なく手渡されるコーヒーと少しのお菓子。そういうものを用意する時間を捻出するために、平日の三木さんがどれだけ必死で仕事をこなしているかなんて、当時の俺は気付いてもいなかった。
 帰りはいつも三木さんが車で送ってくれた。俺の親は不在がちだったし、普段は食事も買ってきた弁当を食べていた。だから何時になっても気にする人もいなかったのに、三木さんは必ず11時には俺を家に帰した。


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