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『ありふれた恋の話』

※BL小説


 よくある話だ。どこにでもあるありふれた話。
 いつかはこんな日が来ると想定していたから、俺はさほど驚かなかった。
 だが、俺は知らなかった。例えそれが聞き飽きるほど聞いたような事柄で、想定内の出来事だったとしても、自分の身に起こったときには傷つかないわけにはいかないのだということを。
 むしろ、何度も想像せずにいられないほど恐れていた出来事が現実になったとき、絶望はより深く暗い穴を穿つものなのだということを。
 身をもって俺がそれを知るのは、お前の言葉が嵐のように俺の心を根こそぎなぎ倒していった、桜が舞い散る春の日のことだった。


 久し振りに訪れるその部屋は、ほとんど変わっていなかった。社会人になってこの春で8年目になる男が住むのに、妥当な間取りとインテリア。堅実なお前らしく、洒落っ気も余計なものもない部屋だ。だが、家具の選びや配置、オープン棚に並んだ本の選択に、お前らしさが滲み出ていた。
 そしてそこには当然ながら、俺達が共に過ごした高校時代の名残を感じさせるモノは何一つなかった。
 俺が梅サワーのプルタブを引いて、缶を口に持っていく途中でお前は言った。
「俺、結婚することになった」
 ほらな、だからここに来ちゃいけなかったんだ。
 最近では二人きりになるのがどうにも苦しくて、部屋に呼ばれても避け続けていたというのに、今夜に限ってお前はちょっと強引で、断る口実を一つも思いつけなかった。
 そのあげくに、これだ。
 俺は、この部屋に向かう途中の自分が、困惑と苦しみだけではなくてやはりお前に会える喜びをも感じて胸を高鳴らせていたことを思い出し、そんな自分の浅はかさを呪った。
「お前には一番に知らせたかったんだ」
 その言葉がどれほど俺の胸を抉ったか、お前は決して知ることはないだろう。幸福に輝く眼で婚約者のことを語るお前に、俺が抱いた殺意にも似た感情を、一瞬の憎しみの後訪れた無感覚を、それでもなお未練なまでの恋情を消せずに、今この瞬間も俺の心が濁った水のようなもので浸されてしまっていることを、お前は想像だにしないのだろう。
 俺の気持ちがお前に分かるか。
 本当なら手近にあるものを手当たり次第に投げつけて、大声で泣きわめきたかった。15の春からもう長い長い間、誰にも言えない恋をお前だけに捧げてきたのにお前はついに気付きもしないのだと、思いつく限りの言葉でお前をなじりたかった。
 でも、俺にできたことは、おめでとうとできる限りの明るい声で言ってやることだけだったのだ。
「ついにお前も家庭持ちか。先を越されたな」
 なんて、ゲイの俺には家庭を持つことなんて叶うはずもないのに、笑顔で言ってみたりした。やけに喉が渇くようで、あっと言う間に飲み干した梅サワーの缶が、手の中で少しだけ歪んでいた。
「いつ?」
「婚約は今週末、土曜に両家で簡単にすることになってる。式は7月に決まった。お前も来いよ。あ、スピーチもよろしくな」
「冗談。絶対拒否」
 片頬だけで笑って返した言葉だけには、少しばかりの本音が混じっていた。
「とりあえず、結婚してからしばらくはここに住むんだ。彩乃もそれでいいって言ってくれてるから」
 彩乃ってのがお前の妻になる女の名前か。俺の殺意のレーザーは一瞬見たこともないその女に向かって照射したが、それは瞬時に跳ね返って自分を射抜いた。憎む権利が俺にあるはずなんかなかった。
「お前最近、誘っても全然ここに来ないだろう。お前とは、これからもずっと付き合っていきたいんだよ。俺が 結婚しても、来いよ? あいつ、結構料理上手いんだよ」
あいつ、だって。すっかり夫婦って感じだな。
 お前は何度も、彼女の手料理を食べたってわけか。彼女は俺がお前の友達だから、俺にも喜んで手料理を振る舞ってくれるってわけなのか。
 お前にとって、その女の方が、俺より近しくなったということなんだな。
 この部屋で、何度、その女を抱いたんだ。
 俺の手の中で、アルミ缶がぺこんと間抜けな音を立てた。見れば、それはもう紙のようにくしゃくしゃにつぶれてしまっていた。
 それでも俺は、笑顔さえ浮かべて、
「やだよ。新婚夫婦のエロいムードにあてられたくねえもん」
と言ったのだった。


 高校時代の何がそんなに特別だったのか。
 別に世界を救うとか、歴史に名を刻むとか、そんな大それた何かに繋がることがあったわけじゃ、無論ない。
 毎日同じ電車、同じ車両、同じ学バスの中のひといきれに耐えて、同じ教室に通う。ある意味、勤め人になった今とさして変わらない繰り返しの日々。
 試験の前には必死で詰め込み勉強、試験明けには開放感でちょっと羽目を外して、つまんない授業を時折さぼって、昼休みには決まって購買でパンを買って、部活でへろへろになって、休みの日には用もないのにレンタルビデオ屋やゲーセンなんかを冷やかして、マック食って「何か面白いことねえ?」なんて言い合う――だらだらとただ日々を過ごしていく、普通と言うよりむしろ、はっきりと凡庸な日々。
 だが、まだ人生にとって大事なことが始まっていないという根拠のない期待感と、何かをしないと取り残されるんじゃないかという焦燥感だけがあって、落ち着かないヒリヒリとした気分に、いつも苛まれていた。
 そんなありふれた毎日が俺にとってこんなにも特別だった理由は、ただ一つ。
 いつも隣りにお前がいたからだ。
 お前はもう高校の頃から、普通のことを極めたあげくに高次元のことを達成するといったタイプの男だった。スポーツにせよ勉強にせよ、成功する人間というものはおしなべてそうなのではないだろうか。
 お前は気さくで明るい性格のために、ずば抜けて特別という風に見えないだけで、やはり非凡な男だったのだろうと思う。常に明るい気持ちで淡々と、手を抜かずに自分で定めたノルマをこなしていく。その態度は、走り込みや筋トレをしている時も、俺をしゃがませてピッチングをしている時も、試験勉強をしているときも全く変わらなかった。得意なこと好きなことにのみ熱心で、嫌なことはつい言い訳して先延ばしにしたくなる俺には、そんなお前が時に憎らしく、そして眩しかった。
「よく俺とまったりしている時間があるよな、お前」
 向かい合わせの席で一箱のポテトを一緒に食いながら、そう尋ねたことがある。
「お前と一緒じゃないときに帳尻を合わせているから」
 というのがその返事だった。家に帰ってもまったりを続けている俺との差が開くのは道理だった。
 そうやってお前はいつの間にか、勉強も、野球も、俺が届かないほど先へと行ってしまった。
 その後お前は、目標だった日本一の難関と言われる国立大学に現役で合格し、私大に進んだ俺とは進路を分かつことになる。
 ハンサムと言うよりは男らしい風貌は、きりっと唇を引き結んでいると、使命感に燃えているようにも見えて、大層凛々しい。だが、破顔して笑うときの開け広げで年齢相応の笑顔や、困ったときの濃い目の眉を下げた情けない顔が、俺は好きだった。日焼けした手の指の中で、爪だけがピンクに見えること、野球帽をとって礼をするときのきびきびとした仕草、筋肉の付き方、声、お前の汗の匂い。何気ない一つ一つの全てが好きだった。
 好きで、好きすぎて、お前への思いを気付かれることがないようにとそれだけに必死でいるうちに、野球とお前に明け暮れた俺の高校生活は終わった。


「お前、あれまだ持ってるか?」
 高校時代の爽やかな凛々しさだけをそのままに、より精悍に男臭くなったお前が、三本目のビールを空けながらそう尋ねてきた。
「あれって?」
「学ランの裏ボタンだよ」
 その言葉で、俺は一気に黒い詰め襟を着た最後の日に引き戻される。


 卒業式を終えて体育館から出ると、俺達は待ちかまえていた在校生の女子に取り囲まれた。
 一通り騒ぎが収まって、卒業証書を片手にやっと逃げ出した時には、俺達の制服の前にはボタンが一つも残っていない有様だった。
「ああ、びびった。お前と一緒にいたせいで、ひでえ目にあった」
 野球一筋だったお前に隠れファンが沢山いるのは知っていたが、俺のボタンまでついでとばかりに欲しがられるとは思わなかった。
「俺と一緒だからじゃないだろう。お前のことを好きだっていう女、同じ学年にも結構いたぞ」
「えっ、何で在学中に教えねえんだよ」
 本当は女なんかに興味がありもしないのに、俺はそう言った。
「お前がもてるのは、分かるよ。話しやすくて身綺麗だし、……顔も綺麗だし」
 お前からそんなことを言われるのは初めてだったので、俺は顔が赤らむのを止められなかった。
「卒業するからって、とってつけたみたいにリップサービスしてくれなくていいし!」
「いつだってそう思ってたよ。言わなかっただけで」
 野球部でもそれ以外でもいつでも一緒にいた友人と進路が分かれた寂しさで、お前も感傷的になっていたのだろうか。
「なあ、お前、裏ボタンは女子にやらなかったろう? それを俺にくれよ」
 速い直球が得意だったお前らしい迷いのない真っ直ぐな言葉が、俺の心のミットのど真ん中に放り込まれた。
 裏ボタン。
 中学生の頃一部の男子の間で流行った子供らしいアイテムを、お前に贈ったのは俺だ。
 当時よく服を買っていた古着屋で、ヴィンテージの裏ボタンを見つけた。スマイルマークの五個セットのものと、野球のボールのセット、どちらを買うかで悩み、結局は両方買って、お前に四つの野球ボールと一つのスマイルマークをやった。俺達はもう高校生なのに子供じみているかとも思ったし、お前はそんなものに興味はないかとも思ったのだが、思いの外喜んで、すぐにそれを付けてくれた。
 俺の学ランの内側には、お前の逆バージョンで、四つのスマイルと一つの野球ボールが飾られた。世界で一組だけのお揃いができたような気がして、嬉しかった。お前のシャツに触れる位置にそれがいつもあることを想像することも、俺を幸せにした。
 そんなもので簡単に幸せになってしまえるぐらい、当時の俺は子供だったのだ。
 その裏ボタンを、お前がくれと言った。
「代わりに俺のをお前にやるから」
 お前が俺と同じ焦げ付くような気持ちで俺を好いているのではないと知っていたけれど、二人の思い出の詰まった裏ボタンを交換したいと思う程度には、俺に友情を感じてくれている。
 これ以上何を望むことがあるだろう。
 十分だ、と思った。裏ボタンさえもらえれば、他には何にもいらないと思った。まだ男も知らない無垢だった俺は、その時本当にそう思ったのだ。


 思えば、あの瞬間が俺の幸福のピークだったと思う。
 そして、今になって気付いても取り返しが付かないことではあるが、気持ちを伝えるチャンスがあったとしたら、あの瞬間だけだったのだ。
 俺の予想を裏切って、俺とお前の縁は大学に進学しても切れなかった。お前は毎月のようにメールをくれて、数ヶ月に一度は会って近況を伝え合った。
 大人に変わっていくにつれてお前は、ますます男らしく魅力的になっていき、俺を息苦しくさせた。それでも日々に紛れて次第に疎遠になっていくのだろうと思っていたのだが、お前は律儀に俺に連絡を寄越し続けた。そのせいで、お前に彼女ができたことも、親には俺と行くのだと偽って彼女と旅行に行ったことも、逐一知らされる羽目になったのは皮肉なことだ。
 俺の方はと言えば、大学入学早々に出会い系で知り合った社会人の男と初体験を済ませ、それ以降はセックスにのめり込んでいた。男に抱かれるのは心が伴わなくても気持ちが良かったし、快楽に溺れていれば実るはずもない恋のことを一時忘れていられた。それでいて、挿入されて揺さぶられている時、これがお前だったらと考えただけで達してしまうことも多かった。相手のサラリーマンには悪かったが、俺のしていることは、男の身体を使ってお前をおかずに自慰をしているのと変わらなかったと思う。
 年上と付き合っていると言ったとき、お前がそれを女だと思っていることを知っていながら、そのままにしていた。
 お前には男に抱かれて悦がるような奴だと絶対に知られたくなかった。お前が卒業の日に言った、
 ――お前がもてるのは、分かるよ。話しやすくて身綺麗だし、……顔も綺麗だし。
 あの言葉通りの男でありたくて、お前と会う予定がない休日でも、一日部屋で過ごす日であっても、アイロンのかかっていないシャツやジャージで過ごすようなことは決してしなかった。ヘアカットにもまめに通い、流行の服を身につけ、爽やかで女に好まれそうなイメージをキープする。そのせいで男女を問わず声を掛けられることは増えたけれど、小綺麗にしているのは見せるあてもない一人の男のためだった。
 そうやってもう長い間、お前に対する毒のような情欲で爛れてしまいそうな心と体を隠して、何人もの男を知って熟した体を時に疼かせながら、お前のイメージを裏切らない古い友達を演じ続けてきたのだ。
 裏ボタンを、どうしたのかとお前が聞く。
 お前に貰ったものを、俺が捨てるはずなんかないのに。
 お前がくれたものなら、どんなちっぽけな思い出でも、俺は捨てることができなかった。たった一度、何の気なしに言われた一言にいまだに勝手に縛られて、身綺麗にするのはもう習い性になってしまっていた。
 その俺に、よりによって今夜そんなことを聞くお前は、何て無神経なんだろう。急速に腹が煮えたのは、先程あおってしまったアルコールのせいなのだろうか。
「……そんなもの、捨てたに決まってんだろ」
 俺がそう言うと、お前はちょっと間が抜けたようなびっくり顔になって、その後あからさまに傷ついた顔をした。
「捨てたのか? 冷たい奴だな。思い出のボタンじゃないか。俺は大事にとってあるぞ」
 彼女との結婚報告をしたその舌で、そんなことを言うお前が憎くて、突然俺はもう耐えられないと思った。
 お前にとって、あの裏ボタンは、アルバムに綺麗に貼られた写真と同じようなものなのだろう。だが、俺にとってあれは、お前への張り裂けてしまいそうな恋情そのものであると同時に、自分の立ち位置を忘れないように自分を戒めるための枷でもあった。
 同じではないのだ。最初から同じではなかったのに、そんなことを俺に言うな。
 今夜はもう、限界だった。
「捨てろよ! そんなもん!」
 吐き捨てるように言って、勢いよく立ち上がった。酔っているせいで身体がふらつく。
「どうしたんだよ」
 お前は呆気にとられている。当然だろう。いきなり激昂した俺に驚いたに違いないが、もうそんなことに構っていられる余裕もなかった。
「帰る」
「泊まっていかないのか?」
 泊まる? 冗談じゃない。お前と彼女がその上でやったかも知れないソファで眠れって言うのか。二人の愛の巣になる予定の部屋に、もう一秒だっていたくはなかった。
「着替えがねえし、明日も仕事だし」
 おろおろしながら駅まで送るというお前を、酔いを醒ましながら一人で歩きたいからと断った。 ドアの隙間から最後に見えたお前の顔は、俺の好きなあの、濃い眉を下げたどこか情けない、途方に暮れた犬のような表情を浮かべていた。


 ざあっと湿った冷たい風が吹くと、桜吹雪が闇に舞い散った。
 お前のマンションから駅まで至るこの道は、今は人通りも絶えている。誰も見ていやしないのに、景気良く花びらを散らしている桜は、俺の心みたいだ。花びらが髪や手の甲に当たるのを鬱陶しいと思っていると、それは雨粒に変わった。
 お前に怒鳴ってしまった。心が自己嫌悪に濡れて重い。いつだって優しかったお前には何の落ち度もありはしないのに、お前を責めるのは筋違いだ。
 雨足はだんだん強くなった。俺は、雨粒と花びらがどんどん振ってくる夜空を見上げた。
 雨がどんどん降ればいい。
 どこにも行き着かないのに咲いている俺の恋も、雨に打たれて綺麗さっぱり散るといい。
 春の雨は、俺の湿って汚れたこの心も洗い流してくれるだろうか。


 お前が両家で結納を交わすと言っていた土曜日は、めでたい日に相応しく快晴だった。今は昼食時だから、お前達はどこかで祝い膳でも食べている頃だろう。
 今、俺の部屋から見えている桜の梢は、先日の雨でだいぶ花を落として、葉桜になりかかっている。俺はそれを見て、お前の部屋から帰るときとは違う思いを抱いていた。
 誰にも見られることもないのに無駄に咲いて散っていくことは空しくはないのかと、あの時そぼ降る雨に打たれる桜を見上げて思った。けれど、桜が空しいなどと思うはずがない。花を咲かせることも、散らせることも、葉を茂らせることも、葉を落としてじっと寒さに備えることも、全てが桜の営みなのだ。華麗な花の時期だけに人が勝手に思いを重ねているだけだ。
 人生は恋だけでできてるわけではない。俺もそろそろ花を散らせて、葉を茂らせることを始めてもいいのではないだろうか。 眠れない夜を幾晩も過ごして、やっとそう思えるようになった。
 今、部屋の中にはカレーの匂いが充満している。昨日の夜作って、今日が食べ頃だ。 俺がこれを作ったのは、このカレーがお前の好物だったからだ。
 お前が俺の部屋を訪れるのは、大抵金曜日だった。だから俺は、木曜の夜は必ずカレーを作って、冷蔵庫で一晩寝かせておいた。何の変哲もない、季節によって野菜の種類が変わり、市販のルーを何種類か使っただけのカレー。そんなカレーを、
「本当にお前ってカレーが好きだよな。来るたびにカレーだもんな」
 なんて言いながら、お前は実に嬉しそうな顔で食べたから、金曜日には決して予定を入れずに、俺はお前が何時来てもいいように毎週、カレーを作って待っていた。
 自虐的だとは思ったけれど、これを一人で全部食べることで、俺の恋の弔いにしようと思った。結婚する日までは、お前は完全に人のものじゃない、と思うこともできた。だが、先に延ばせば決心が鈍って、ずるずると続いてしまいそうだったから、今日を失恋の日にすると自分で決めた。
 これを食べ終わったら、二度と自分でカレーは作らない。裏ボタンも捨てる。
 俺が山盛りのカレーにスプーンの最初の一匙を入れようとした時、玄関のチャイムが鳴った。
 扉を開けて、そこにいるはずのない男の姿を認めたとき、俺は驚いてしまった。 お前は、ライトグレーの真新しいスーツを着て、ドット柄の黒いタイと淡いパープルのチーフを胸に差していた。彼女の見立てなのだろうか、スーツといえば紺とダークグレーの無難な姿しか見たことがなかったお前にしては、華やかで春らしい装いだった。
 だが、お前の顔色は、そんな洒落っ気のあるスーツにはそぐわず真っ青で、酷く汗をかいていた。だから俺は真っ先に、お前の身内か婚約者に何か悪いことがあったのだと思った。
 真っ青になって目ばかりを光らせたお前の顔が、ふと緩んだ。
「……カレーの匂いがする」
 そう言ってお前は、笑顔の出来損ないのような何とも言えない表情を浮かべた。 いつも年の割に落ち着いていて、泰然と明るいお前が、見たこともないほど取り乱している。きっと、良くないことがあったのだ。
 お前は俺の渡したコップの水を飲み干して、少し落ち着いたように見えた。
「お前、何があったんだよ。今日、結納だろ」
「うん、そうなんだけど」
「そうなんだけどじゃねえよ。こんなとこに来て、何やってんだよ」
「……断ってきた」
「何を?」
「結婚。しないって断ってきた」
「……何で?」
 お前は大言壮語を吐くような男ではないけれど、言ったことは必ず実行する奴だ。そのお前が、結婚すると身内にも公言したのだ、取りやめるからにはよっぽどの理由があるに違いないと思った。
 それなのに、お前が続けた言葉は、思いがけないものだった。
「この前、お前がうちに来たときな。何だか、哀しそうに見えて」
「えっ?」
「そうじゃないんだ。お前のせいってわけじゃないんだけど」
 いつもと違って支離滅裂だ。自分の気持ちを自分でも掴みかねているように、必死で言葉を探している。
「俺は、目標を決めてそれをきちっと達成していくのが好きだ。そういうのが自分らしいと思ってるし、安心もできる。だからこの先の人生も、健康で人柄のいい女と結婚して、子供も二人ぐらいは欲しいし、なんて漠然と考えてた。彩乃はしっかり者だけど優しくて、料理上手だし、理想的な奥さんになってくれるだろうと思ったんだよ」
「彼女に、何かあったのか?」
 お前のイメージに合わない部分が彼女の中に見つかったのだろうか。例えば、意外に性格がきつかったとか、男関係が派手だったとか。
「彩乃に落ち度はないよ。俺だけの問題で、彼女には本当に済まないと思ってる。だけど、自分でもどうしようもないんだ。……この前、お前が帰るときすごく哀しそうに見えて、それからいろいろなことを考えてた。例えば、このカレーのこととか、俺が急に行くよってメールしても、断られたことがなかったこととか、いつも二人分のカレーが用意してあったのは何故なんだろうとか……」
 ――俺?
 俺の心は激しく震えた。お前は俺の気持ちに気付いたのだろうか。そして、俺に同情したのだろうか。 だが、一時の気の迷いで、お前が幸福を手放すのをみすみす見ていられない。だから、俺はこう言ったのだ。
「二人分とかじゃねえし。俺の翌日の分をお前が食い尽くして行っただけだろう」
「そうか。そうだよな」
 お前は、情けない犬みたいな顔になって、手の中のコップをじっと見つめていた。
「何……何やってんだよ、お前。あんなに嬉しそうだったじゃねえか……。しっかり者で優しくて、料理も上手なんだろ。そんなできた彼女を、泣かせるんじゃねえよ。今なら、まだ間に合う。急に自信がなくなって世迷い言を口走ったとか何とか言えば、彼女だって相手の親だってきっと許してくれる。帰れよ、早く!」
「……お前は、そうして欲しいのか?」
 頼む。お前の背中を押してやれなくなるから、まるで切ないみたいなそんな目で、俺を見るのは止めてくれ。
 俺はありったけの心の力をかき集めて、振り絞った。
「ああ、そうだよ」
「……そうか」
 伏せたお前の目の下が、俺と同じような隈になっていた。眠れずに悩んだのは俺だけじゃなかった。それだけで、俺は満足するべきなのだ。
「お前が帰って欲しいなら、そうする。だけど、俺と彩乃は壊れたんだ。俺が壊した。謝ったってもうそれは元には戻らないし、今さらそうするつもりもない。俺には無理だと分かったんだ」
「何でだよ! カミさんもらって、子供作りたいんだろ。理想的な相手なんだろ。早まって結論出すなよ」
「お前にあの裏ボタンを捨てたって言われたとき、凄いショックだった。俺の持ってる分も捨てろって言われて、俺は結婚するってそういうことなのかと悟ったんだ。俺は、結婚することとお前とのつきあいは、全く別の所にあって並び立つことなんだと何となく思い込んでた。だけど、そうはいかないんだよな。金曜の夜にここに立ち寄って、カレーを食ったり、一緒に酒を飲んだりDVD見たり、そういうのは全部なくなるんだって思ったら、もの凄く怖くなった」
「なくなるわけじゃないだろ。相手が変わるだけだ。そんなことは全部、彼女とやればいいんだよ。カレーだって、もっと上手に作ってくれるさ」
「多分そうなんだろう。彩乃はコルドンブルーでアシスタントをしていて、本当に料理の腕はプロ級なんだ。カレーだっておそらく、幾つものバリエーションでとびきり美味いのを作れるだろう」
「だったら……」
「それでも、それはお前のカレーじゃないんだなあと思ったら、何だか力が抜けてしまった。俺が食いたいのは、このカレーなんだなって思った」
「……お前はバカじゃねえのか」
 心も体も震えが止まらなくて、俺の心はお前にしがみつきたがっていた。今、お前の人生が壊れるのをくい止められるのは俺しかいない。お前に向かって雪崩れ込んでしまいそうな自分を抑えて、必死で踏みとどまっていた。
 お前に、裏ボタンだとかカレーだとか、そんな些細なもののために、こつこつと努力して積み上げてきた全てを、なげうたせるわけには行かない。
「俺と一緒にいてどうなるよ。俺はお前が思ってるような奴じゃねえぞ」
 だから、俺は死んでもお前だけには知られたくなかった、一番醜い俺を見せた。
「俺なんか――俺なんか、出会い系で男漁るような奴だぞ」
「言うなっ」
 お前が飛びかかるようにして俺の口を押さえた。
「言うな。この年で、お前ぐらい綺麗なら、一人や二人誰かと何かあったって当然だ。でも、聞きたくない」
 お前の目が、ギラギラと危うい光を帯びていた。
「一人や二人じゃない、俺は――」
「お願いだから言わないでくれ。頭で仕方がないって分かってても、そんなことを聞くと、胸が焼けただれたみたいで苦しい。……今、やっと理由が分かった。お前は一番気安い友達のはずなのに、会うたびに垢抜けていくようで、何だかいつも眩しかった。どうして他の奴らと違って、お前といるとざわざわするんだろうとずっと思ってた」
 お前は掌を俺の唇から離した。
 二の腕を抱きしめても震えが止まらない。
 俺はどうすればいい? お前は俺と違って、女を愛せる男だ。きっと俺は、最後までお前を突き退けるべきなのだろう。でも、さっきなけなしの気力を最後の一滴まで振り絞ってしまった俺にはもう、力が残っていなかった。
「これだけ効かせてくれ。お前は、本当にあの裏ボタンを捨ててしまったのか?」
 ――捨てたと言え。
 俺の理性はそう命じる。でも、俺の本能は嫌だと答える。 何を口走ってしまうか分からなくて、俺はただ黙ってお前の顔を見つめることしかできない。
 もう長い間、堰き止め続けてきた心のダムには、自分でも何が何だか分からないドロドロしたものがいっぱい溜まっていた。
 諦めと、未練。
 鈍いお前に対する恨めしさ、歴代のお前の彼女に対する嫉妬、そんな感情を抱いていることへの申し訳なさ。
 心とは別の所にある情欲、そういう自分を汚らわしく思う気持ち。
 多分そんなようなものが渾然一体となった奔流が、出口を求めて胸の内側を軋ませている。
 お前はスラックスのポケットに手を入れて何かをつかみ出し、目の前で手を開いた。 4つの野球のボールと、一つのスマイル。
 懐かしい5つの裏ボタンを載せている掌が、小刻みに震えているのを見た時、
 ――もうだめだ。
 最後の心のつっかい棒が倒れるのを感じた。 もう、突っ張れない。
 結納の席でも、お前と共にあった5つのボタン。
 お前がどれほど悩み、混乱しながらここにたどり着き、勇気を振り絞って俺の前に立っているのか、お前の手の震えが物語っていた。
「何でだよ……」
 ――お前が背中を向けてきた場所に、お前に相応しい人生が幾らでも広がっていたのに。
 俺はお前の手にしがみつくと、その場に膝を突いた。 涙が溢れて、頬とお前の手に伝っていく。 お前はじっと俺が手を濡らすに任せていた。
 お前に申し訳なくて、狂おしいほど愛おしくて、哀しくて、それでもやはり嬉しくて、頭の中がごちゃごちゃだ。
「お前も、本当はまだボタンを捨ててないって、思っていいのか」
 お前の問いかけが、俺をさらに泣かせる。 音を立てて堰が崩れてしまえば、理性が示すのとは逆の向きに雪崩を打つ熱い奔流は、もう自分で留めようもなかった。
「お前も俺と同じ気持ちでいてくれるって、思っていいか」
 ごめん。ごめんなさい。
 お前を愛している全ての人に、どんなに詫びても詫び足りない。
 例えそれがどんなに誰かを悲しませるのか知っていても、俺のエゴでお前の人生を酷く損なうのだとしても、俺はもう、お前の手を離してやることはできない。
 壊れたように何度も頷く俺を、お前は壊れ物のようにそうっと胸に抱きしめた。
 身を切られるほど切ない幸福というものがこの世に存在するのだと、俺は生まれて初めて知ったのだ。


「本当にお前はカレーが好きだなあ」
洒落たスーツの上着とネクタイを外して、くつろいだ姿になったお前が、美味そうにカレーをぱくつきながらそう言った。
 センターテーブルには湯気を立てるカレー皿と、野球のボールとスマイルマークそれぞれ5個ずつの裏ボタンが載っていた。
「好きは好きだったけど、流石にもう食い飽きた」
 と俺は言った。
「お前が来ない日も、毎週カレーだったから……」
 うっかり言いかけたその言葉を聞いて、お前はニヤニヤとやに下がった笑顔を浮かべた。
「俺のために毎週作って待ってたのか?」
 しまった。語るに落ちてしまった。顔が赤らむ。
 恥ずかしいぐらい弛んだ顔で、あからさまに悦に入っているお前が憎らしくなって、
「お前こそ、カレーなんかで道を踏み誤りやがって」
 と言ったけれど、自分の言葉があまりにもその通りだったので少しばかり落ち込んでしまった。
 だって、俺はしっかり者とはお世辞にも言えない万事アバウトな人間だし、優しくもなくて結構嫉妬深いし、料理はごく簡単なものしか作れない。言うまでもないことだが、子供だって産むことはできない。
 俺を選んだことによって、お前が失うものはあまりにも多く、俺がお前にしてやれることはあまりにも少ない。
 それなのに、
「道を踏み外さないで済んだんだと思う。結婚してしまう前に、自分の気持ちに気づけて良かった」
 お前がしみじみとした口調でそう言ったから、俺はまた泣きたくなる。
「だからもう、泣くなよ」
「泣いてねえよ……」

 その後交わしたお前との最初の口付けは、涙とカレーの味がした。


<了>



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