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『曼殊沙華の咲く頃には』

※BL小説です。18歳未満の方、興味のない方は閲覧をご遠慮ください。


【ヒガンバナ】
 花言葉:「悲しき思い出」「再会」「想うはあなた一人」
 ≪赤≫「情熱」
 


 雨だれの音が聞こえる。
 陸人(りくと)は本が濡れないように鞄に入れて家を出た。
 雨で黒く光る石畳を用水沿いに辿っていく。しばらくそのまま進み、古びた木の橋を渡ったところに小さな神社がある。神社の裏手の道沿いには曼殊沙華の花が群生していて、この季節にはいつも禍々しいほど赤い海となった。
 濡れそぼって立つ曼殊沙華の花は、どことなくうら寂しい艶めかしさを漂わせて、ぞっと肌が粟立つような妖美を感じさせる。
 今年もこの花の季節になった、と陸人は思う。
 子供の頃は、年上の従兄、郁(かおる)に会いに行くたびに、神社のこの花一帯を通るのが怖ろしかった。
「花を触った手を舐めると歯が欠ける」
 そんなことを祖母から聞かされて、通り過ぎるときはいつも口を押さえて走りすぎた。そうしないとこの花が、こちらに触れてくるような気がしたからだ。
 今では思う。これほどに妖艶な花姿でありながら咲いていることすら忘れられているこの花は、郁によく似ていると。

 郁の部屋に入り、借りていた本を返す。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』。
「面白かった?」
 いつでも仄暗く感じられる和室に滲むような、5歳年長の従兄の笑み。
「とても」
「陸人はまだ18だしね。こんな女性に入れあげたりしたら大変だ」
 からかうように言って郁が笑う。いつまでも子ども扱いされていることに苛立ちを覚える。
「そんなこと、絶対にない」
「どうしてそんなことが言える?」
 従兄が本を本棚に戻す後ろ姿を、畳の上にあぐらをかいて座ったまま陸人は見つめた。大きいと思っていた従兄はいつしか自分よりも一回り細く、目の高さほどまでに小さくなっていた。
 白いうなじ。細い腰。しなやかな背中の線。息苦しさを覚えて視線を剥がす。
「神社の彼岸花、今満開だった。彼岸花の花言葉って知ってる?」
「何?」
 問い返す声はさして関心がなさそうだったが、陸人はかまわず続けた。
「悲しい思い出。想うはあなた一人、っていうんだ。中国では相思華と言うらしいよ。葉と花が同時に出ないから、葉は花を思い、花は葉を思う」
「何だか切ない花なんだね」
 郁はまた仄かに笑った。以前はこんな笑い方はしなかった、と陸人は思う。
 5年前。あの日を境に郁は変わった。あの時も、曼殊沙華の花が確かに咲いていた。

 その日、陸人はいつものように、郁のところへ遊びに行った。
 13歳の陸人には、大学に入ったばかりの郁が随分と大人に見えていた。ものごしが優しく美貌のこの従兄が自慢で、大好きだった。
 郁の家には、伯父の友人の息子だという若者が、数日前から逗留していた。全国を横断する旅をしていて、父親からの手紙を手に立ち寄ったらしい。
 確か雄緋(ゆうひ)と言っただろうか。初対面とは思えない気楽さで陸人にかまい、旅の話を聞かせてくれたような記憶がある。野生味を感じさせる美しい青年で、郁と並んでいると絵のようだった。
 郁は今よりずっと無邪気な笑顔で、輝くような眼をして、前に訪れたときからさして間が空いたわけでもないのに、驚くほど綺麗になっていた。
 その日は『路傍の石』を借りることにして、ふたりとしばらく話してから郁の家を出た。
 夕暮れ時の神社の横を通り過ぎるとき、夕日に映えて一層燃え輝く曼殊沙華の花が、まるで無数の花火のようだった。さすがに口をおさえることはもうしなかったが、何か過剰なまでに美しいこの花に気味悪さを感じたことを覚えている。
 その時、借りたはずの『路傍の石』を郁の部屋に忘れてきたことに気付き、陸人は元来た道を戻ることにした。
 郁の家の玄関の鍵は開いたままで、
(びっくりさせてやろう)
 いたずら心をおこし、そっと靴を脱いで家に上がった。
 大好きな郁がびっくりした後笑ってくれる顔を想像し、わくわくする。階段を上ろうとした時、一階の客間にしている和室から、妙なうめき声が聞こえた気がして、陸人は障子のわずかな隙間から中を覗き込んだ。
 その光景を、今でも陸人は夢に見る。
 腰を高く上げて畳の上に犬のように這った白い郁の裸身が、汗でぬらぬらと光りながら前後に激しく揺れていた。背後から郁を揺さぶる雄緋は服を着たままで、郁の腰をつかんで身体を打ち付けていた。
(郁、)
 郁が酷いことをされている、と思った瞬間、喉をのけ反らせた郁の顔が見えた。
 上気して前髪を額に張り付かせたその顔は、愉悦の霞で煙り、官能に濡れきっている。
「あぁ、……あ、……っあ、ゆうひ…、雄緋……っ!」
 雄緋の突き込むリズムに合わせて漏れ出す声までも濡れていた。
 郁の喘ぐ声と淫靡な湿った音が、陸人を水の中に閉じこめて溺れさせ、息をできなくさせる。陸人はじりじりと後じさり、背中に壁を感じてだっと走り出した。
 衝撃と恐怖と性の疼きに炙られて、陸人は無我夢中で走った。
 薄闇に沈んだ境内の横を走り抜けるとき、火の消えた曼殊沙華の群れが、風に頭(こうべ)を揺らしていた。

 曼殊沙華。
 この世ならぬ美しさで人の目を驚かせながら、どこかに不吉さを漂わせてうち捨てられている、繊細で妖艶で寂しい、天上の花。
 5年前のあの日、陸人はもう従兄の家には二度と行けないような気がしていたけれど、じきにまたこうしてここに通うようになった。何事もなかったような顔をして言葉を幾つか交わし、本を貸し借りする、ただそれだけのために。
 蜜を求める蝶のように、この場所へと引き寄せられる。抗いようもなく、この薄暗い部屋へと引きつけられ続けている。
「彼岸花、少し切ってこようか?」
 試すようにそう尋ねながら、答えは既にわかっている。
「神社の花を勝手に切っちゃいけないよ。それにね、あの花には毒があるから。手折ったりしちゃ駄目だよ。いいね?」
 ほら。想像した台詞と一言一句違わない。
「それならさ」
「うん?」
 郁のどこにも緊張のないくつろいだ様子を見て、後の言葉を飲み込む。この5年、繰り返しそうしてきたように。
「いや、なんでもない」
(それならどうしてあの日、郁の家にはあんなにたくさんの花があったの?)

 衝撃的な場面を目撃してから半月程が過ぎた頃、陸人は母親からのおつかいで、梨が入った袋を持って郁の家を訪れていた。
 インターホンを鳴らさずに玄関扉のノブに手を掛けたのは、もしかしたらまた「あれ」を見られるかもしれないと思ったからだ。
 あの日以来、陸人は従兄の裸身を思い浮かべての自慰をやめられずにいた。いけないことだと思う程背徳の興奮が募り、昼となく夜となく刺激を加えられ続けた性器が痛むようになっていたのに、どうしても手がのびてしまうのだ。
 あの日と同じように、施錠はされていなかった。音をたてずに扉を開き、ゆっくりと閉めてから靴を脱ぎ、足音を立てずに一階の和室へと向かう。心臓が胸の皮膚を破って弾け飛びそうだった。
 襖は開け放たれており、和室には誰もいなかった。障子越しの日の光が、畳の上に落ちている。
 大きく一つ息を吐く。がっかりするより安堵していた。従兄の淫らな姿を見たい気持ちと同じぐらいに、他の男をその身の内に受け入れている姿を見たくない気持ちがあるのも、嘘ではなかったから。
 おつかいの用事を果たそうと台所の方に回る。
 廊下を曲がった途端、視界を染め上げた、赤、赤、赤。
 血塗れの光景に驚いて声を上げそうになったが、流し台から床へ流れ落ちる鮮血と見えたものは、目を凝らせば大量の曼殊沙華なのだった。
 こちらに背を向けて、郁が何かをすり鉢ですり下ろしている。俎板の上に転がっているのは、ニンニクか何かだろうか、白い球根状のものだ。血のような赤に囲まれた流しで、全身が揺れるほどの勢いで作業している郁の後ろ姿には、鬼気迫るものがあった。
「郁」
 声を掛けると、凄い勢いで振り返った従兄の顔は青ざめて、滝のような汗が流れていた。
「……は、……陸人か、びっくりした。どうしたの?」
「ねえ、この花なに?」
 無残に床に雪崩れ落ちた花に手を伸ばすと、
「駄目!」
 初めて聞く従兄の大声に驚いた。
「この花には毒があるから触らないで」
 見れば、郁は手にビニール手袋をしている。
 毒があるならどうして、食事を作るこの場所に大量の曼殊沙華があるのか。誰がこの花をここに持ち込んだのか。毒花の中で、そんな据わったような眼をして、いったい郁は何をしているのか。
 すり鉢ですり潰している、それは何だ。
 頭は急激に疑問符で埋め尽くされていったが、何だか訊いてはいけないような気がして、テーブルの上へ梨の袋を置いた。
「これ、お裾分けにって母さんが」
「ああ、ありがとう。叔母さんによろしく伝えて」
 逃げるように従兄の家を後にした。まだ暑い九月の昼下がりだと言うのに、寒気がしてならなかった。

 郁の家に逗留していた雄緋の姿が見えなくなったのは、それから三日後のことだ。挨拶の一つもなかったことに伯父夫婦も最初こそ呆れていたが、元々全国横断旅行の立ち寄り地に過ぎなかったわけだし、またふらりと旅に向かったのだろうとさして気に留める様子はなかった。
 雄緋が去ってしばらくすると、永井さんの家の優里が泣き暮らして痩せ細ってしまっただの、沖さんの下の娘のひなたが産婦人科から出てきただの、口さがない噂が狭い町中を飛び交った。噂の真偽はわからないが、雄緋が郁だけでなく、少なくない数の娘達とも関係を持っていたのは間違いないようだ。
 郁はと言えば、噂を耳にしても特に沈んだり取り乱したりすることもなく、静かに日常を送っていた。ただ、眩しく明るい笑顔は影を潜め、見る程に胸がしんとするような笑みを浮かべるようになっていた。

 あれから5年。
 あの日見た曼殊沙華の洪水が、頭を離れない。
 曼殊沙華は、花、葉、茎、根、すべてが毒を含んでいる花だ。そのためモグラ避けに墓の周辺などに植えられることが多かった、とネットを調べるうちに陸人は知った。中でも毒が多いのが根で、人間の致死量に当たるリコリン10gは、曼殊沙華数百本分に相当するらしい。
 だから、花の根から毒を抽出して人を殺すことは難しい。そのはずだ。
 だが、もし中毒症状を起こすことができたら? それが例えば川縁や崖の上など、落下リスクのある場所だったとしたら?
 町の周辺にはそういう場所ならいくらでもある。
 何度も何度もシミュレーションを行い、自分だったらここにするという場所を歩いてみた。何も見つからないことに安堵しながら、この季節が巡るたびに、陸人はこの先いくたびも沢や崖下を歩いてみるのだろう。
(秘密があるなら俺に全部預けてくれ。郁を守れるのなら、俺は夜叉にだってなれる)
 その一言が言い出せないばかりに、今日も陸人は、本を選ぶ従兄の背中を食い入るように見つめていることしかできない。
 郁は何を待っているのだろう。誰に知られることもなく、どこにも行き着くことのない情念を燃やして、この薄暗い部屋でただひとり咲き続けるのか。
(郁。俺じゃ駄目なの?)
 その時、郁がゆっくりと陸人の方に振り向いた。

〔了〕

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