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『雨に打たれて 1』

※BL小説


 カーブの多い国道を走っていると、短いトンネルが連続する場所に差し掛かった。オレンジ色の灯りに照らされた、巨大なシリンダーの中に閉じこめられたような空間に、マシンの音が反響する。
 三つ目のトンネルを抜けたところで、薄暗がりから一転して目を射る白い雨の光景の中に、ひときわ見通しの悪いカーブが現れる。
 バイクを停車した時、水しぶきが上がって、路肩に着いた足が小さな水たまりの中に浸かった。
 あの日もこんな風に、ガードレールや街路樹の輪郭が白く煙るほどの激しい雨だった。
 この世には決して取り返しがつかない物事があるのだと俺が知った、あの日のことだ。
 俺は、懐から小さな花束を取りだした。あかりの好きだったガーベラの小さな束は、少しひしゃげて元気がなかった。あの場所に置かれたガーベラの花びらは、雨に打たれて震えていた。
 帰りのトンネルで、壁に自分の影ではない何かが映っているようで、バイクの唸りに混じって耳元で何かを囁かれているような気がして、俺はひたすらに帰路を急いだ。

 自分のマンションまで辿り着いて、バイクを所定の場所に駐輪し、正面玄関から入ろうとしたところで急に俺は力尽きた。植え込みの縁に腰を掛けると、崩れるように頭を抱える姿勢になった。
 どんなに雨に打たれても消えない、心にできた黒い染み。
 雨に洗われると元の色を取り戻して、鮮やかな血の色に戻る心の染み。
 携帯を開き、履歴に一通だけ残してあるメールを見る。日付は二年前、差出人は、あかりだ。
 あの日は土砂降りだったのに、どうしてもあのトンネルの先にある海を見に行きたいのだとねだった、彼女の最後のメールだった。
 あかりの月命日には必ず、いやそうではない、毎日、毎朝目が覚めるたびに、俺はこうして生きていていい人間なのかと自問する。あかりは死んだのに。俺が殺してしまったのに――。
 こんな雨の日は、あかりと俺との間に飛び越えるものは何もなく、すうっと何気なく彼岸へと渡ってしまえそうな気がする。
 視界が暗くなり、雨粒が当たらなくなったので、俺は掌を顔から外した。
 細かいシャドーストライプの、グレーの背広が見えた途端、ああ、あの人だと分かった。見上げると、傘の中に思った通りの顔があった。

 眼鏡をかけた細面の整った顔が、傘の翳りのせいか少し青ざめて見える。
「風邪をひくよ」
「……何であんたがここにいるんですか」
 今日はあかりの月命日だ。今日だけは、あんたはここにいてはいけないはずだ。今日だけじゃない、俺とあんたは二度と会ってはいけないはずなんだ。
「帰ってくれよ」
「君が無事に部屋に入ってくれたら、帰るよ。このままじゃ肺炎になる」
「どうだっていいだろう。俺が生きようが死のうが、あんたに何の関係がある。妹を殺した憎い男だ、死んだ方がいっそ清々するんじゃないか」
「そんなことを思ったことはない!」
 滅多に声を荒げることのない男が叫んだ。

 あかりの葬儀に行った時、人殺し、と叫んであかりの母親は泣いた。返して、あの子を返して、返してと何度も叫ぶうちに声は嗄れた。帰ってくれと押し殺した声で言った父親の拳は震えていた。
 ああ、俺は人殺しなんだと、そんなことは分かっていたはずなのに、人から押された烙印は俺の臓腑を焼け焦がした。
 その時でも、喪服を着たこの人は、自分の方が死人のような顔色をしていながら、俺を責めるようなことは何も言わなかった。

「あかりが君のそんな姿を望んでいると思うか」
 そう問いかけられて、俺はぼんやりとしてしまう。
 どうだろう。あかりは、俺がそっちに行くことを望んでるんじゃないだろうか。今も、待ってるような気がする。
 この雨は、誘いの雨だ。カーブでちょっとスピードを上げさえすれば、簡単に向こう側に移れる。こうしてあの場所に通ううちに、いつかはきっとそうなるだろうと、それは最早確信に近いものになっていた。
「……君が心配なんだ。このままでは、君が死んでしまいそうな気がして……」

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