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雑記|つくり手と素材の間


この春、つくり手の工房をぽつりぽつりと訪問した。

出会いはいつもモノが先で、そのモノと向かい合ったとき、これをつくった人に会いたいという気持ちが沸々と沸いてくる。
どうしたら会えるだろうかと考えはじめ、予定を立て連絡をとり、製作の合間を縫ってお時間をいただく。

取材を終えた帰り道はいつも、あの人柄とあの環境だからこれが生まれるんだよなと、点と点が線でつながり、心がすとんと腑に落ちる、不思議な感覚に包まれる。

#1 下本 一歩さん


#2 安土 草多さん



つくり手と素材の間

まだ、始めたばかりのこの試みだが、どうして自分はこんなことをするのかなと考える時間でもあって、ひとつ分かったことがある。

それは、わたしはつくり手と素材の間の小さな世界がすきなんだ。

ふたりだけの小さな世界で、つくり手は素材に「〇〇はできるか?」と問う。
さわってやってみて、その返事を素材がする。頃合いをみて、まだ早いと「もう少し待って」と素材がいう。

人間本位に無理やり力づくでやることはしない。いつも素材にききながら、素材の持ち味を人が少しだけ手を加え引き出す。
その関係が落ち着くまで、皆10年以上は刻を要しているようだった。

そんなつくり手と素材との間のやさしい空気感がとってもすきなのだ。

「いつも通り」のその気配は、在廊する個展の会場ではみられない。いつものその場所、拠点とする土地、工房でみられるつくり手の柔らかな表情がとてもすきだ。

つくり手が素材と会い対するときのやさしさのようにその道具がつかい手の暮らしの中にはいり、心地よい素材とのやさしい空間が無数にできてそれが連鎖すれば、これ以上うれしいことはない。

売るためのものづくりではない。
こころ豊かに暮らしていくために自然のちからを少しだけ借りて暮らしに取り入れる。借り暮らしのアリエッティ。
そんな循環ができれば。


言葉にすること

だからわたしも無理に言葉にしようとしなくていいのだ。

言葉が出てこないときには思い出を身体の中で熟成させて溢れそうになったら、文字におこす。
言葉がもう終わりだよと言ったら、その記事のおわりだ。もう少し書きたい。まだ、つくり手と素材との間のやさしい世界のすぐそばにいたいと大抵は思うのだけど、文字からの「もう終わりだよ」が聞こえたら、文章を結ぶ。

その一連の流れが愛おしく心地よい。


この先も人と場所と素材と出会い、どんなやさしい気配を感じられるのかをたのしみに。

まだ見ぬ出会いに想いを馳せている。

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