#2 安土草多 | 硝子
くもりのないつるんとした表情を目にすることが多い硝子のグラスや皿の数々。
あの透明な世界の中に、くもり、ゆらぎ、気泡がのこる独特の技法で唯一無二の世界観をつくりだす硝子作家がいる。
岐阜県は飛驒高山。
心地よい風が吹き抜ける盆地の丘の工房で、それらは生み出されている。
時間をかけない
半径1メートルほどだろうか。
作業に必要な一通りの機材を円状に配置。工程ごとに行ったり来たりして、ひとつの作品を作り上げていく。
時間にして約5分の一連の動きは、まるで魔法を見ているようだった。
ほどよく身体の力が抜け、狂いなく力みなく同じ動作が繰り返される。
その動きは、作家というよりは職人のようである。
その動きから生み出させる硝子細工の数々は、一般的なものと比べると表面が複雑な表情をしていて、さぞ時間をかけて製作しているように見える。
どうしてあんなに早く一つの作品が仕上がるのか。
訊けば、硝子は加工のために加温すればするほど型に吹き込んだ際の表面のテクスチャーが元のガラス板のようなつるんとした状態に戻っていく。
なるべく時間をかけずに必要な分だけの動作に削ぎ落とすことで、特有のテクスチャーを残している。
余計なことはしない、無駄をはぶいた簡素な手仕事である。
ゆらぎの正体
では、どうしてあの“ゆらぎ”が残るのか尋ねてみた。
ガラスを一定の大きさまで吹いてから、鉄の型にはめる。
鉄材は温度が低いので、鉄にあたった高熱のガラスの表面は冷やされ、縮もうとする。
その縮みがあのゆらぎを生み出しているのだという。
美意識と消費
硝子のグラスや器の数々は飾って眺める作品ではなく、暮らしの中で使われる道具である。
作品は、使われてはじめて完成する。
そういう意味で言うと、僕たち工人※1よりも生活者そのものがアーティストだと思うんですよね、と安土さん。
その言葉で一年前、紫蘇ジュースを安土さんの鳴門グラスに注いだときのことを思い出した。
注いだときにグラスを通して揺らめく液体の影。カランコロンとグラス、氷、液体がぶつかり合う音。注いでいるわたしにだけに届けてくれた秘密のサプライズのようで、グラスと影の小さな世界を目の前に心満たされた。
もっと言えば、工人よりもはるかに大工や左官、庭師など、そういう人の方がむしろアーティストなのではないかと安土さんはいう。
自身は「安土草多」として名前が表に出るけれど、彼らは名もなきアーティストながら、風土や気候のその先を捉えながら空間をつくりあげていく。社名は残ったとしても、一個人の名前が表に出ることは稀である。
一方、誰が作った作品なのか、世間からの評価を基準に高値がつくこともある現代の工人の業界。
安土草多がつくったから選ばれるのではなく、たまたま入った店にガラスの道具が置いてあって、気に入ったものが安土草多さんがつくったものだった、というくらいがちょうどいい。
これは、かつて貴族の美の基準こそが正であると信じて疑わなかった世の中の風潮に疑問をもち、民衆の日常の暮らしの手仕事から生まれる褻(ケ) ※2の美に価値を見出し肯定し続けた柳 宗悦※3の考えに通ずる。
世間のものさしで評価され、群がるブランド消費よりもひとりひとりの感性に正直に選ばれ、つかわれる。
そういう“何にも誘導されず、強制されないその人の感覚に正直な選択”と“数あるモノの中から選び取るリテラシーの成熟”を望む。
この記事を書いている最中、夏はいたるところで、硝子作家の展示会が催されている。
数々の展示会に出向き、作家の名にも世の中の基準にも惑わされることなく、静かに店の硝子や器の前に身を置いてみる。
わたしは質素すぎず、華美ではない、でも、品格のある美に包まれている安土さんの硝子が好きだ。
安土さんの硝子と過ごす日常は、深い安心感に包まれる。
様々な土地や人の手でつくられた作品を目の前にすることで、心の底から腑に落ちた。
雑談にて
玄関先に植える木は、ブルーベリーがいいんだよなぁと日常の言葉がこぼれ落ちた。
理由を訊くと、ブルーベリーは梅雨の頃に実を付け、秋には葉が見事に紅葉するらしい。
住んでいる土地に学び、四季の移ろいから教わっていることがよく分かる何気ない言葉だった。
そしてやはり硝子に加えて日本の暮らし、民藝のその先を見つめている姿が印象的だった。
売るための作品をつくっているのではない。
安土さんは、硝子の作品をつくりそれが暮らしの中に入っていくことを通して結果、暮らし文化の一部を担っているようにみえた。
最後にぽろっと。
柳(宗悦)の言葉に救われたことがある。と教えてくれた。その柳の言葉とはなんなのかもっともっと深く訊きたかったけど、一度では無理だ。
この質問は、時間をかけてじっくりと訊いてみたいと心にしまった。
何気ない日常の中に、醜いものなどひとつもない。
それが野に咲く雑草や料理のあとに残った野菜の皮だとしても、目の前にあたりまえにあるものから美しさや得意分野を見出し、磨き、生かしきる。
そういう日々を積み重ねていくことで美意識は知らず知らずのうちに育っていく。
安土さんがみつめるずっと先には、暮らしへの美意識が成熟した日本の未来が映っているのかもしれない。
そう思わずにはいられなかった。
令和5年 梅黄ばむ頃
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