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宿河原で眺めた、桜並木を思い出して。

桜の季節が終わりを告げ、どこか初夏の気配を感じるような、湿り気を帯びた風が頬を撫でるようになった。

今年はお花見に行くことは叶わなかったけれど、宿河原の桜並木を見に行く機会があったので、今回はそんな日に撮った写真を並べていきたい。

陽光が暖かく降り注ぐ土曜日の午後に、宿河原駅に降りた。桜並木は駅から徒歩5分ほどの場所にあるそうで、少し歩いていくと、満開の桜とともに、人だかりが見えてくる。

休日だからだろうか、たくさんの見物客が桜を見にきていて、細い道は人で一杯になってしまいそうだ。

私は人混みの中の一員として、特に行く宛も決めずに、並木道に沿って前に進んでいった。桜は私たちを包み込むように、腕を広げている。

光の美しい日だった。写真を撮るようになってから、光への審美眼が身につきつつあるのは、嬉しい副産物だったと思う。

当初は、カメラを通じて、世界を美しく写そうと考えていたけれど、世界はそもそも美しくて、カメラを通すことで、その美しさに少しばかり触れさせてもらえるだけだったのだ。

ここのところ雨が降っていたからか、満開の桜はすでに散りつつあった。桜吹雪は、老いも若きも男も女も、別け隔てなく降り注ぐ。

ここにいる誰もが、それぞれの違う生活を営んでいて、それぞれの違う地獄を抱えながら、しかし皆一様に同じ美しさに触れている。そんなことも素知らぬ顔で、花は咲き、散っていくのか。

私たちはしばしば、すべてに終わりが来ることを忘れてしまう。時が経つ速さを知っているのに、その流れに身を委ねているうちに、あるいは逆らおうともがいているうちに、急流に飲み込まれている。

もっとこうしたかったとか、もっとああしたかったとか、そんな後悔にもならない、ささやかな記憶の輪郭をなぞっているうちに、人生なんてあっという間に終わってしまうのかも。

それが悲しい気もするし、でもそれでいい気もする。

桜を眺めていると胸が苦しくなるのは、時の流れをあまりに突きつけてくるからだ。静かに爆発し、そして散っていくその姿が、私たちに終わりを啓示する。

けれど、私たちは桜から目を背けられない。その切実さからは逃げられない。

知人が「春は人を殺す生き物だ」と歌っていた。ほんとうに、その通りだと思う。

人生があまりに長いことが恐ろしい。そして、あまりに短いことが恐ろしい。自分と自分以外が変化していくことも、変化しないこともまた同様に恐ろしいのだ。

こんなに恐ろしいのに、春風は生ぬるく私たちを包みこんで、優しい手触りの不安のなかで、一人ぼっちにしてしまう。

私たちは、それぞれの人生を目の前にして、一人ぼっちかもしれないが、同じ桜を眺めている。それは今も昔も変わらない。

今年も春が終わる。風は止み、むさ苦しい太陽が顔を出すし、その後はまた風が吹き、厳しい寒さがやってくる。それだけのことだから、きっと大丈夫。全部、大丈夫になれる。

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