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大笑映画の会と映画塾|新しい五年目に向けて(前半)

はじめに

大笑映画の会は令和元年4月(正確には平成31年)、三つの基本理念(エンターテイメント性、新しさとクオリティ、ローカル性とオリジナリティ)をもとに非営利の自主映画制作団体として創始しました。一方の大笑映画塾は同年6月、関西拠点の映画作家育成を目的に会内のサブ事業として、これも非営利で創始しています。今は4年目の終わりにあり(4月〜3月)、毎年恒例ではありますが、過去の反省を踏まえて新年度に向けた新方針をここに表明するものです。

尚、今年度は大笑映画の会塾にとってとても多くの経験が積み重なった年となりました。これにより、これまでの事業体で生じ得る運営の問題点が明確になり、各事業の基本理念ならびに目標を追究する上での方法論の大幅な軌道修正が必要不可欠となった次第です。

当記事では、以下の二部構成で考察を行います。

  1. 四年目の反省|映画作家育成事業のこれまで

  2. 未来に向けて|映画作家育成事業のこれから

まず結論から、今後映画制作と映画作家育成の二つの事業は分離させます。それぞれ映画制作は会運営母体の大笑の事業として新たに再編成し(営利・非営利は各プロジェクトごとの別となる)、映画作家育成事業は営利と非営利の棲み分け、あるいは役割分担を視野に入れた大幅な軌道修正を行う所存です。これまで、大笑映画の会塾は主にパートタイムで映画制作をしたい方々が多く参加してきたことから、今後構成メンバーはプロ(またはプロ志望)のみとなる映画制作事業については部分的に考察するに留め、本記事では映画作家育成事業に大きな焦点を当ててお伝えしたいと思います。

四年目の反省|映画作家育成事業のこれまで

映画塾塾生と作家性

2022年夏に撮影を終えた塾生A作品は編集のヤマ場を迎えています。2022年秋に撮影が始まった塾生B作品は撮影初日の後に中止となりました。塾生C作品は脚本作業を中断、無期限延期となっています。2022年度に撮影を予定していた塾生作品はこの三つなので、今の所うまくいっているのが1作品、失敗が1作品、失敗する前にやめたのが1作品となりました。

経験ベースで試行錯誤してきた結果、当初の目論見からは適った部分とそうでない部分とが見えてきました。最大の光明は監督Aが意欲的かつ主体的に作品作りに取り組んでくれたこと、そして技術的な助言を素直に受け入れたことです。

無論、映画塾ですから、塾生は技術的な助言を受け入れなければいけません。少なくとも基礎の座学や実技レベルではそうだと言えます。しかし、実際の映画づくりとなると多少話が違ってくることにも気付かされます。今回目論見が外れた部分の一つなのですが、端的に、企画・脚本から映画完成に到るまでに行わなければならない選択の数が膨大であることにより、その全てに指導側が助言・介入するのは不可能である、ということです。

成長の基本は「自学」である

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自主映画の監督は、特にその駆け出しにおいては、企画脚本の最初から映画完成の最後に到るまで、中心的な役割の全てを単独でこなさなければいけません。自分で書き、自分でカメラを持って撮り、自分で編集するわけです。これについては当会塾で異論を認めることはありません。映画監督は映画作品の唯一の作家である、と主張するとき(トリュフォー以降の作家論の立場)、作家の定義は形式の創造者です(これは私松村)。有名どころでは、スタイル全般に強い作為を施したヒッチコックの演出スタイルに似ていると言えます。

映画作家 = 映画作品の形式の創造者

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映画作品の形式とは、映画における4つのスタイルのことであり、撮影照明、ミゾンセン、編集、そして音声です。この4つでいかに意味を伝えるか、その「いかに」を支配するのが作家です。例えば、音楽は作曲に丸投げ、撮影はシネマトグラファーに丸投げ、と言うのは作家として失格です。作家とは形式の創造者、ということを難しく考える必要はありません。我々は形式(無形の匂いや音も含む)があってこそ感覚でそれらを受容できるのであり、その形式に託された意味を初めて知ることができる。存在しないものを感じることはできませんし、故に意味を知ることも不可能です。これに則れば、意味だけではこの世に存在していることにはならない、ということです。 

作家とは形式の創造者、とは?

例えば、最近ではAIに言葉をインプットするだけで絵が出力されるそうです。この場合、その絵の作家はAIか?それともAIに言葉をインプットした人か? どちらでしょうか。 …この答えはいたってシンプルで、絵を描いてもいない人がその絵の作家であるわけがありません。先の場合、敢えて見分けるのであれば、AIが絵の作家であり、AIに言葉を入力した人はその言葉の作家です。この前提を理解して初めて、次のような妥当な議論ができるようになります:「果たしてAIに作家性はあるのか」。長く議論されてきた作家論に当てはめても、これに対する回答は可能です。AIは作家では、ありません。なぜならAIには固有の人生がないからです。固有の人生を歩むには時間と空間の中に「自分」という実体が存在していなければならず、その実体は世界を受容するための感覚を持ちあわせなければなりません。AIには実体も、感覚もありません。そのAIは自ら感覚を持たないため、その出力はもっぱら、すでにデータ化された何らかの形式を入力の元としています。言い換えれば、AIが知る世界というのは、生の世界を任意によってシグナルとノイズに分けた、その一方のシグナルのみで構成された世界です。そして、一度形式化されたデータは普遍、どこの誰が見ても聞いても同じです。これによって生じる弊害は、日本にいるAIと月面にいるAIに同じ出力をさせることが可能だということです。自分の人生とは、自分の実体とその五感で受容した自然の世界によって成り立ちます。言わば、AIは時間と空間を隔てても同じであることができ、その同じであるということが個としての存在価値をゼロにします。仮にこのAIを一人の人間としてその人格を認めるに至っても、聞き手は次のように考えてしまうわけです。「このAIと同じAIが他にもいるのに、敢えてこのAIの話を聞く必要があるのか」。

映画作家にも同じ考えを当てはめることができます。映画の作家は映画の形式を創造した人物です。映画界には昔から、監督を唯一の作家として認識することに対する反感が存在していますが、それは例えば、最近のNETFLIX作品の作家のクレジットが「Creator」になったりしていることからも状況が垣間見えます。Directorが作家じゃあないのか、と言う話ですよね。いや、この場合はCreatorが作家という意味です。Creatorとはそのまま創造者を意味しています。特に分業が進んだ巨大な規模の映画制作では、監督は単に映画形式を作り出すための一つの技術職と化していることがあり(例えば、ブロッキングちゃんとしてね、演技みてね)、故に「ハリウッドの巨大映画生産システムは作家を殺す」と言った類のことが言われる所以でもあります。もし、その映画作品の作家が監督というクレジットが与えられた人物以外に存在しているのが明らかな場合は、監督よりも優位であることを示す肩書きすなわち「Creator」が台頭していると見ることができるのです。それとも、Directorと言うクレジットは幅の聞かせている組織のせいで使用が難しいと言う面も多分にあるのでしょうか?(それもある)

自主映画ならまだしも、作品の規模が大きくなっていくと、単独での作業が難しくなるため、監督以外のクルーがだんだんと増えていきます。4つのスタイルを専門とするクリエイティブや、助監督、制作等ですが、監督の仕事を作家のそれとして認める場合、これらの仕事はあくまで監督のサポートとして機能することになります。監督は、映画作家として、「なぜ撮影はこのように撮らなければならないのか」、「なぜここでカットしなければならないのか」、「なぜ役者はこのように体を動かすのか」、あるいは「なぜこの瞬間にこの音がなるべきなのか」、その一つ一つの意味を伝えるための形式を理解していなければならず、そうでなければ適切な演出はできません。ここで言う演出の意味とは、

特定の意味を伝えるためにもっとも効果的な映画形式を創造すること

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そうできるようになるためには、経験、理論、実践の繰り返しです。そもそも、大笑映画塾は、少しずつ、しかし着実に映画作家としての力量を地道に育てていく場として創始しました。撮影のことはわからないから撮影部に丸投げ、では意味を伝えるための映画形式を支配していないことになり、作家ではないと言えます。大笑映画塾の理念は次のものです。

関西拠点の映画作家の育成のため、映画制作の基礎的かつ体系的な知識とスキルを身につける場と機会を創生する。

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映画制作基礎講座の序章後編(非公開)でも言及しているように、会塾における映画作家の定義は、映画の意味を伝えるためにその4つのスタイルを創造する人のことを指します。映画塾のみならず、映画の会参加者に対しては、この映画作家の定義に関する理解と絶対的な追随を創始以来、強く求めてきました。

塾生作品の成功と失敗を分けたもの|映画作家を目指して、る?

元い、塾生作品に関しては、以下の二つの条件を満たすことが必要でした。

  1. 監督を担当する塾生、その他会塾参加者が映画作家としてレベルアップすること
(育成事業)

  2. 完成作品が十分なクオリティであること
(制作事業)

上記のいずれかでも大きく外れてしまった場合は、塾生作品として不適格である、ということになります。なぜこのような条件が存在し、それを満たさなければ「不適格」なのかというと、冒頭で述べたように、二つの事業を一つの事業体で共立させようとしていたことによります。これについては後ほど詳述しますが、簡単に述べると次のようなものです:非営利団体である以上は、制作や育成事業に費やせるリソースに大きな制限があり、少ない資源を効果的に使用するために、それをより有意義に使える人を選抜して与えるという方法論を採用した。このため、監督は特権であり、その特権を受けるためには特別な条件を満たすことが必要となった。もし条件を外れた場合は、他の人にリソースを与えた方が良いということになる。

ところで、これまでも何人かの参加者に「映画のクオリティってなんですか」と多少反抗気味に聞かれることがありました。その質問を聞くたびにいつも、「この人は映画制作基礎の序章を視聴したのだろうか?」という懐疑心を抱きます。端的に、その答えは技術です。頭で考えていることを形式に変えて表すには技術が必要だからです。形式というのは4つのスタイルです(既出)。それらのスタイルを如何に操るのか。ややアグレッシブな素人は自分の技術ではなく”個性”をみて欲しいと駄々をこねることがありますが、それは間違いです。個性に優劣はありません。故に個性は評価できないものです。世間ではごく普通に行われていますが、個性に優劣をつけたらそれは差別と言えます。ただし、差別と好き嫌いは同じではありません。個性は好かれまた嫌われます。素人は個性と技術を分けて考えることができないため、話がごちゃ混ぜになってひねくれることもあります。たまたま好かれれば自分は”優れている”と勘違いし、嫌われれば”劣っている”とレッテルを貼られたような気分になるのです。それは違う。繰り返しになりますが、個性は好き嫌いであり、優劣はありません。個性は同じにできないからです。理由など無関係、好きは好き、嫌いは嫌い、以上、です。しかし、一方の技術は違います。技術は基本的に比較することができます。例えば、露出やホワイトバランス、フォーカスといった基礎から、構図と照明、さらにはカメラワーク等、被写界深度を知らずにシネマトグラフィを語るのは多少大胆すぎます。カメラを持って録画ボタンを押しましたでは評価はゼロですよ、という話です。感覚だけで映画を作っていては早々に作品のクオリティは頭打ちすることになります。その時に悩みを解決してくれるのが、理論と実践です。理論というのは、先人たちが頭で考えたことを実際にやってみて、試行錯誤した上に積み重ねられた知識の体系です。

技術を評価するというのはつまり、塾生が上手いか下手かを決める、ということでもあります。学校で成績がつくのと同じですね。私が義務教育を受けていた頃は、例えばテストに答えるのに、授業で教わったことがない知識を必要とする問題を出す先生がいました。教室という限られた世界で得た知識ではなく、外の大海で得た知識を試してくるのですが、これに対して私は反感を持ったものです。貴方という先生に教わるためにこの教室にきて、教わったことの習熟を測るためにテストがあるのに、教室の外の世界で得られた知識によってテストで良い評価がもらえるのであれば、この教室に来る必要がない。外の世界で何を見知るかなんて、それこそ個性次第です。この点、映画の会塾における評価はシンプルなもので、会塾内で共有された知識と技術のみが試されます。

この評価手法は逆に、映画塾が映画作家の評価にあたり、ドライな技術的要素のみを考慮し、当人の思想や物語の内容に優劣はつけませんよ、と言っていることを意味します。自分とは異なる人々に”好かれる”ように映画を作っていくプロセスよりも実は遥かに簡単で明瞭なものだと言えるでしょう。参加者の評価は、彼らがちゃんと教えたことを理解したか、そのために勉強したかどうかによってのみ優劣が分けられます。しかし、厄介者なのはこれを勘違いしてしまう人々です。個性に優劣をつけられたと思って「あんたに俺の何がわかるんだ」と、要はそう言いたそうに歯ぎしりしているわけです。残念ながら、こういった方は個性の意味を勘違いしています。

ところで、育成事業としての塾生のレベルアップと、映画制作事業としての作品クオリティの向上は、見事に反比例します。なぜかというと、塾生のスキルを上げたければ全ての作業を自分たちでやらせるのが最もふさわしく(試行錯誤)、完成作品の質をあげたければ逆に経験者が多く制作を手伝ってあげるのが最も効率的だからです(合目的)。しかし、どちらを優先すべきかと言うと、これは当然、塾生の映画作家としてのレベルアップの方を選びます。それが育成事業の目的だからであり、一方のクオリティの高い作品作りは上位の会作品で行うものだからです(会塾は映画制作事業を兼ねている)。

映画制作、例えば企画脚本から映画完成に到るまでの間には、なさなければならない選択の数は無数にあります。細かいものまで含めれば、自主映画短編レベルでも数千数万あることは間違いありません。選択というのは、意味から形式に変換する際に具体的にどのような判断をするのか、ということです。作品全体の質は、この一つ一つの選択が相互に関連しあって全体を押し上げるものです。大笑映画の会という単一の事業体で塾生作品の制作を行う以上、これらの相反する二つの条件のバランスをいかに取るかが大きな興味となります。一体、経験者がどれくらいの作業を手伝ってあげるのが最も効果的なのか?ということですね。その答えは、育成事業と映画制作事業の妥協点を見出すところにあるのですが、今回実験を通してわかったことには、変数がこれ以外にもあるということでした。その変数とは、三つ目の条件に繋がるもので、そもそも経験者側が使えるリソースにも限度がある、ということに起因します。塾生作品のためにリソースを使いすぎてしまうと、例えば、手伝う方が自作品を作ることができなくなります。私自身も又、映画作家として活動しており、フルタイムで教える学校の先生ではありません。大笑映画の会塾は無償で育成を行う場として運営してきたため、私が忙しいからといって代わりに人を雇って運営するということもできませんでした。

そもそも、いくら経験者が手伝ったとしても、素人の監督作品を一定以上高いレベルに押し上げるのは不可能です。素人を徹底的にフォローして質の高い作品に仕上げる時間が経験者側にあるなら、彼らが自分の映画を作るためにそのリソースを使った方がはるかに良い結果をうむでしょう。塾生作品に必要以上のリソースを割いてしまうと、今度は会塾の十箇年目標を達成するための作品制作が不可能になります。三つ目の条件はすなわち、

3.- 十箇年目標達成の妨げにならないこと

になります。

*十箇年目標というのは、「会塾またはその参加者が10年で超一流の映画を作れるようになる」というもの。

実際にプリプロから撮影に至った塾生作品二つを振り返るに、上記三つの条件が密接に絡み合って、成功と失敗が明確に別れて行きました。特にその明暗を分けたのは、塾生が自分自身でどれくらいの選択をする「つもり」なのか、という自主性です。このことは、自分で映画形式を創造するという、映画塾における映画作家の基本的な定義に立ち戻ります。結果に準じていえば、今日まで成功している塾生Aは技術を学び、形式化を独力で行うか相当程度に支配していますが、作品中止となった塾生Bは技術にほとんど関心がなく、形式化の少なからず多くを私を含めた他者に大きく依存していました(会塾の制作システムは単なる映画制作の自動化ツールであった)。このAとBの差を鑑みるに、何がそれを分けたのかの詳細をフィードバックすることが、今後の映画作家育成事業にとって肝要であることは疑う余地がありません。

作品Bが失敗した理由を既述の三つの条件に当てはめると、監督が選択の多くを自身ではなく他者へ依存することにより、会塾の多大なリソースを制作に費やしながら映画作家としてのレベルアップの機会を浪費にしたこと(育成事業への違背)、さらにプリプロ、撮影の全期間を通して映画技術に関する限定的な興味しか示さず、監督として映画作品の品質を向上させることへの責任を事実上放棄したこと(制作事業への違背)、そして作品のクオリティ向上を経験者による貢献に大きく依存したため、経験者側のリソースを食いつぶし、会作品の進行が滞るなどしたため、三つ目の十箇年目標達成の妨げになったこと(映画の会の至上命題への違背)などが挙げられます。

何故、監督志望が形式を自ら創造しないのか?| 脳みそ時代の大問題

さて、映画塾を運営し、少なくない数の参加者に接してきて思うのは、特に映画監督を志望する人の多く(10代後半から20代後半まで)が、「映画という形式を自ら創造するつもりのない者」、であるという点です。実にずる賢いなあと感じたのは、映画塾の参加者の複数人が、例えば、大笑映画の会に来れば、映画形式の撮影照明に関わる部分は私(松村)がぜんぶやってくれると何故か信じていました。それに対する私の言葉は「それじゃあ俺が作家になっちゃうよ」だったのですが。

ここでの疑問は、どうして彼らが形式を自ら創造しようとしないのか、というものです。これには何か個々人によって異なる深い理由があるのでしょうか。考えるに、どうやらそうでもないようです。というよりも、なにか全体としてのパターンがあるのでなないかと薄々感じています。そのパターンとは何か、をここで考察してみます。

映画形式を自分の力で創造するつもりがないというのは、すなわちその形式を作り出す前の「意味」だけを考えるのが自分の仕事だと言うことです。これについては崇高でオリジナルな考え方でもなんでもなく、単に頭で考えるだけなら容易だからにすぎません。難しいのは形式に昇華する作業であり、実際の世界に自分の感覚で接しながら試行錯誤すること、実際にやってみることです。ですが、経験が浅いうちはなんでも頭の中で決着がつくと思いがちです。経験の浅さによる負荷と言うのは、頭で考えることと実際の世界で起こることが大体同じにならないことによって生じます。その差を詰めていくのが経験であるわけです。

単に経験が足りていない

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塾生個々人のみならず、我々人はほとんど例外なく人生を楽な方へ楽な方へ転がそうと無意識のうちに染み付けますから、面倒な方には可能な限り行きたくないと言うのは当たり前の発想です。家から外に出たくないのは外に出ると何が起こるか分からないからであり、人と話すのが嫌なのは自分の独善によっては一切コントロールの聞かない人間関係に身を投じるのが面倒だからでしょう。映画監督志望であるにも関わらず、映画形式を自分の手で創造することにほとんど興味を示さないと言う理由の一つは、これに同じで、単に面倒だからである、ということが考えられます。そうした人々は私が生まれたころからもすでに「口だけは達者」だと評価されてきました。そういえば、インターネットが発達した今、それはよくも悪くも可視化されています。

少なくとも映画監督志望であると言うことは、自分の抱いたアイデアを人々に伝えたいと言う欲求は人一倍強いはずであり、それを伝えるためには映画なら映画形式にしないといけないのですが、そのプロセスは当然面倒であり、可能であれば誰か他の人に代わりにやってもらった方が楽である、と言う発想は自然なものです。そして、それは個々人の中のオリジナルの発想ではなく、大きなパターンの中で共通する思考のクセだとすると、なぜこの流れが性懲りもなく今も続いているのか、ここでいう「映画監督業界」で? という疑問が生じるのです。形式を作る前の意味だけを考えるのが仕事なら、映画監督には素人にもできます。誰だって子供のころはなんども世界を救うスーパーヒーローやお姫様になったものです。確かに、まだ年端もゆかぬ子どもが監督を名乗っていたりすることがありますよね。

映画は数多い芸術の中の一つに数えられ、キリスト教世界によって定義された芸術は原則、作家がいて初めて成り立ちます。原則的に、絵の作家なら絵を描けなければならず、そのためには絵に関する知識も技術も経験も必要です。自分は文字情報だけを創造してあとはAIがなんだかわかりませんが絵を描いてくれました、自分は絵の作家です、などというのは戯言に過ぎません。作曲家も同様、素人がAIに作曲させてなんか知らないけどいい感じの音楽ができました、僕は作曲家です、などというのは世迷言です。では、映画作家が形式化の作業をAIではなく他人に任せる場合は事情は異なるでしょうか? 否、同じです。いつになるかは分かりません、AIが絵だって音楽だって、会話だって出力できるようになった昨今、そのうちまとまった物語映像もほぼ人の手を介すことなしに出力できるようになるのは時間の問題です。ある程度のものなら今だってすでにできているからです。

*尚、創作の一部をAIに担わせることについて私は好意的である。例えば作曲家の場合は、AIが出力した形式を音楽的に理解し、それを自らの創意工夫によって改変していくという作業を否定しない。映画の創作にも機械的な部分が数多くあることは疑いようがないので、これらを自動化しても良いとつくづく思う。例えば脚本執筆においてもっとも地に足ついた感覚が必要だと思うのは映画言語の段階である。どうやれば人間に伝わるかは、感覚を持っていないAIには分からない。重要なのは機械を扱う作家がその形式の創造について十分な能力を持っていることだ。例えば、ピアノを弾いているのはピアニストだが、音を鳴らしているのは鍵盤である。では鍵盤がピアニストか? CGアニメーションを出力しているのは機械であり、人はボタンを押しているだけである、では機会が作家か? も似たような問いである。

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作家である以上はその芸術形式を自分の手で創造する、ということに対し、それをややこしくしているのが脳みそ優先の風潮です。実際の世界での行動を通して経験を得るなんてオワコンだ、なんでも頭の中だけで完結すればいい! と嘯くこの奇怪な流れは、我々作家の死を連想させ、それは作家論でBarthesの唱えたところの現代版ともいえ、形式ではなく意味ばかりに重きを見出した脳みそ優先人間(=イケ好かない〇〇野郎)の導いた末路であり、それというのは我々人間の死であり、芸術の死でもあります。”作品の意味を決めるのは作家ではなく読者であるから「作家の死」→意味を決めるのが作家である”という主張が根底にあるとすると、そこに一石を投じたのが行き過ぎた形式主義です。そして、脳みそ優先の人々がなんでもかんでもが頭の中で完結しないことに気が付いたとき、現実の世界とその相違を解消するために使われるのが利己のための「ウソ」です。その嘘はいつも現実世界で他者を害します。

先に「頭で考えていることを形式に変えて表すには技術が必要」と述べました、この脳みそ優先社会においては、それの意味するところすら経験がなければ理解できない、ということは特筆に値します。これは逆説でもなんでもなく、もともと意味ができる前に世界があったのだから当たり前の論理なのです。4年弱に渡るこれまでの映画塾の活動の中でようやく気がついたことには、参加者の少なからず多くが満足いくアウトプットを出せない根本的な原因には、この単純な経験不足があるという点です。しかし、結論としてはシンプル極まりないこの「経験不足」、言い換えればなぜ参加者がなかなか行動できないのか、頭の中で考えたことを実際の世界で試行錯誤できないのかという問いに対しては、非常に大きな課題が見え隠れするのです。映画作家育成の場として、この参加者の経験不足をいかに克服するかを論じる前に、4年目までの映画塾がどのような方針の上でカリキュラムを提供し、そしてどのような問題を抱えてきたのかを明らかにしなければなりません。

レベルに見合わない理論と実践

反省として、映画塾創始の際に唱えたスキルアップの手法、「理論と実践」は、多くの参加者のレベルに合っていたとは言えない、ということです。正直なところ、理論は小学生の夏休みの宿題状態だったことが大半で、理論がよくわからないから実践も身にならず、ほとんどの人にとってカリキュラムはうまく回りません。そもそも、「理論と実践」というのは上級者向けの体系であり、学習者がある程度の経験を持っていて初めて実になるカリキュラムです。これは、数少ない映画塾での成功例である監督Aにも言えることで、Aの場合は絶えず経験が先行し、理論と実践は”少しずつ地道に”取り入れていくという手法をとっていました。それでも理論と実践を経験不足の参加者に採用していた理由の一つは、映画塾の資格条件を「経験者」ではなく「自学できる者」にしていたからです。それができる素質の一つに「柔軟(素直)であること」と定めた結果、例えば長期的に計画的に勉強して難易度の高い大学に入ったとか、同様の企業に就職したとかいう連中が残っていったわけですが、これはこれで結果論であり、何も映画塾採用の際に学歴や就職先を敢えて聞いたことはありませんでした。

しかし、自学できるはずの人々がなかなかアウトプットできなかった原因を鑑みるに、当然ですが素直さだけでは足りない、ということが次第に分かってきます。少なくとも、塾生たちにとって理論が面倒な夏休みの宿題状態だったのは、そこにたどり着くまでの経験(遊び)がなかったこと、ないならないでそれを得ようとする自主性(意味から形式化する)が見られなかったことと、さらには十分な経験を可能にするための時間の確保もできなかったからということが考えられます。

【理論と実践のカリキュラムをうまく吸収するための条件】

  1. 素直さ

  2. 経験(遊び)、それを得ようとする自主性

  3. 映画のための時間の確保

素直さについては、人間誰しも嘘がつけるし、誤魔化せるので、こちらの目を欺くことも往々にして可能ではありました。こちらの目を欺けばリソースが手に入るので、これはこれで損得の範疇になり、映画の会塾の運営を厳しいものにしていった理由の一つであるのですが、それは後述することにします。

重要なことには、参加者のうちごくわずかな数しか理論と実践のカリキュラムに対応していないと知りつつも、それでもよしとしたのは、適塾条件に「経験」をカウントしていなかったことの他にも、結局、会塾が作品制作に割けるリソースは有限であり、皆に平等に与えるものではなく、より多くを分配する参加者を選抜する必要があったからです。

会塾で監督を複数擁して作品制作を行っていくという展望はごく初期からのものですが、3年目で気が付いたことには、参加者に技術的な優劣がある以上、会作品を重ねるごとに順当にクオリティをあげていくことは現実的に不可能であると言うことでした。映画制作歴10年の奴もいれば0年の奴もいるのだからそれは当たり前のことです。これを解決するため、会作品の最低限の監督資格を定めましたが、一人も条件を満たさないまま3年目が終わります。これでは映画塾参加者の育成にならないので、4年目は作品のクオリティの条件を大きく緩和し、実験的に映画塾参加者に「塾生作品」の枠組みを創設し、条件付きで一定のリソースの配分を許容することにしたわけです。しかし、これが「経験不足」の者に不相応のリソースを割いて大コケのいっぽ手前までいくと言う惨劇をもたすことにも繋がりました。この時に予想外だったのは、会塾が塾生のために配分するリソースは、一定の方々にとっては単なる「フリーマネー」でしかなかった、ということです。どうでも良い話にはなりますが、会塾の運営は主宰の松村の私財を運営資本としており、それらのリソースは松村が長年働いてようやく手に入れた末にできたいくばくかの余裕でしかありません。その心ばかりのお裾分けを、参加者が当たり前のように浪費したかと思えば、挙句には足りないとワガママを言い放つまでになると、これは優しくしすぎたな、人選を誤ったなと反省したものです。

そもそも任意の私設団体(参加者から料金を受け取っておらず、非営利で公的補助金も得ていない、私的財源のみを運営のソースとする)が、特定の参加者に特別にリソースを配分し、映画を作らせると言うモデルが単なる福祉未満の自己満足であると言いたい人もいるでしょう。それについては私も同意するところであり、素人映画をボランティアで全力支援するなどと言う馬鹿げた思想は持ち合わせておらず、それを防ぐ目的で、会塾が参加者に要求する条件を明文化していた、先に述べた映画作家の定義やそのレベルアップといったことですが、しかしそもそも映画塾参加者を選出する前提が根本的に間違っていたこと、それによって不適格な者を選出してしまい、それだけならまだしも、そういった人に対して過大なリソースを吸い取ることを多少なりとも許したと言う点において、やはり非営利団体として映画作家の育成を行う場合にこのモデルには大きな無理があったと言わざるを得ません。

兎にも角にも、間違った人員選出条件を採用したまま4年目の活動は進んで行きます。あらかじめそれを断った上で話を進めると、学校でもできる人とそうでない人がいるように、映画塾のカリキュラムにうまくついてきた者に優のラベルを貼り、リソースを与え、劣のラベルが付いたものは基本的に放置すると言う方策をとっていました。しかし、特に4年目については、それまで厳しかった監督資格のせいで誰一人監督を担当できなかった手前、条件を大幅に緩和する形であえて不相応のリソースを必要とする者に段階的に分け与えており、三年目まではあった参加者の優劣を測るガイドラインも曖昧にし、その結果、先述のように嘘をつく者を見分ける手立てを失って行きます。これにより、会塾の無償のリソースを得るために人を欺こうとする参加者がいれば多大な損失を被ることになりますが、それを選別する防衛線は確かに少し緩んでいたと言えるでしょう。

有限のリソースとボランティア活動の狭間で

実体験による経験の浅さを克服することは映画作家として成長するために不可欠であり、そのためには、当会の映画作家の定義を理解し、それに従うことのできる素直さ、率先して体を動かす自主性、そして十分な経験をえるために活動するだけの時間的余裕が必要ということでした。

そして、塾生AとBの違いでもっとも顕著だったことの一つは、自主的に映画作家(この場合実写映画)としての経験を積もうとするかしないかだったと言えます。この点、Aは当会における映画作家の定義(形式の創造者)に従い、逆にBは我流の定義(頭の中の意味の創造者←意味はまだ創造されていないので厳密には創造者ではない)を採用し、従いませんでした。また、Aは映像写真系を仕事とするフリーランスであり、フルタイムでしかも日常的に「頭の中の意味→形式」の変換作業を行っていたためか、技術がいかに重要かを理解し、尊重していました。例えば、こちらが何も言わずとも一人で撮りに出かけ、いつの間にか編集をし始め、そして作品づくりを日常的に行っていたのです。一方のBは、我流の映画作家の定義を採用していたことにより、技術を尊重しなかった上に、普段は映像映画に無関係の労働者として働いており、実写映画制作における「頭の中の意味→形式」の変換作業の経験がほとんどありませんでした。日常的に自ら進んでカメラを持って撮ったり、その素材を編集して作品を作ると言ったこともなかったので、この点に置いても、A作品とB作品を支援する場合、どちらの作品により多くのリソースの投入が必要だったかは容易に想像できるでしょう。Aとは違い、Bの場合は技術を手取り足取り教えなければならなかった、しかし経験に乏しいため知識を与えてもなかなか技術に昇華することができません。

何故、監督志望が形式を自ら創造しないのか|考えれる四つの理由

それにしても、映画監督になりたいという参加者の多くが、在籍している間、特に自主的にカメラを持って撮影し、短い自作品を作ってすらいないことはとても象徴的でした。中にはカメラさえ日常的に触らないという人もいます。こういった状況にはある程度のパターンが見て取れ、そのパターンの一つが、先にも述べた「脳みそ優先」です。

頭で考えていることを形式にしよう(行動に移す)とすると、実損が生じ得ます。近くのコンビニに行こうとすれば歩く距離の間カロリーと時間を使う必要があるし、あるいはつまづくかもしれないし車に轢かれるかもしれません。基本、我々が頭で考えていることを行動に移すかどうか決めるときはプラマイ勘定は免れないものです。なかなか行動に移せないという人々は、この勘定を頭ではじいても中々筋の通った答えを見出せないから行動に移せないでいるわけです。近所のコンビニにいくくらいならある程度妥当な計算は可能ですが、新しいことをするとなると、答えなど出るわけがありません。これは当たり前です。

① 脳みそ優先(頭の中の世界に固執する) → 形式化しない方が楽

しかし、この計算はいつも中途半端です。その方程式にどのような項を採用するかはいつも任意だからです。逆にもし、何か新しいことをする時に、頭の中で完全に勘定がはじけて答えが出たという人がいればそれこそ嘘だと言っても過言ではありません。無数のランダムな世界の中から、各々好きなように断片を囲って情報化し、項として方程式に加える。選ばれた情報はシグナルに格上げされ、選ばれなかった無数の要素はノイズになります。シグナルとノイズを区別しなければ計算を明確に弾くことはできません。そしてそのシグナルとノイズの区別の仕方は結局任意であるわけです。仮にビジネスで得をするためにもっともふさわしいと思われる情報のみを集めて得を弾き出しても、損をするのは、採用した情報が間違っていたか足りなかっただけです(得をしても同じです)。では全ての情報を計算式にいれられるかといえば、それは無理です。自然から情報への変換からしてすでに多くのフィルターを通していることは言うまでもありません。だから脳みそ優先の我々は損得の方程式に取り入れる項の多くを可能な限り「予測可能」なものにしようとします。それというのは、自分が知っていると思うことです。その過信は時に大きな失敗を招きます。ある程度頭で考えることは必要ですが、あとは試行錯誤を繰り返していくことが肝要なのです。

ところで、塾参加者の多くは、本業でしっかり頭と体を使って切磋琢磨しているらしいのにも関わらず(無論それすら嘘であるという可能性は否定しませんが)、なぜ映画作りでは打って変わって頭だけしか使わず、形式を創造しようとしないのでしょうか。「猫踏んじゃった」しか弾けない人がピアニストを名乗っているのを聞いたことはないし、彫刻ができない人が仏師を名乗っているのを見たことはありません。できるできないは形式化と技術の話だからです。しかし映画では、役者の演技を見るだけで作家を名乗ることが許され、fストップと被写界深度の関係を知らずともカメラマンを名乗れ、照明の知識がなくともシネマトグラファーを名乗れ、ブームを持って音を拾っただけで録音を名乗ることができ、さらには無数にある映画祭が無数の映画とそのキャスト・クルーに無数の賞まで与える。彼らには世界が見えているのでしょうか。最低、隣の半島国の過去十余年ほどの映画の圧倒的な品質向上を垣間見るだけでも、あまりの技術差に絶望しか覚えないはずです。それにも関わらず、技術軽視、反知性主義がまかり通るのは、これまで日本の映画業界(といったものがあるのであれば)が、特に若者に向けて、脳みそだけで大丈夫だよ、といった誤ったメタメッセージを伝え続けてきたからです。

知識や技術や経験がなくても、頭の中で考えているだけで「成功」できる!

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映画制作が少ないコストでハイリターンを得られる可能性のある一発逆転の方法なら、それはそれはやらないでおく法はありませんよね。積立NISAで小銭を投資するよりも映画を作った方がリスクは少なく、老後は安泰です。日本政府は国民全員に対して今すぐ映画監督業を勧めるべきでしょう。

さて、冗談が過ぎましたが、監督志望が形式を自ら創造しない理由の2番目は、過ぎた損得勘定です。①の頭の中での計算と似たようなことに思えますが、ここで損得というのは他人を巻き込んでの損得勘定、その結果としての利己という最も厄介な性質です。

② 形式の創造(行動)を損得勘定で測る → 利己的になる(他者の損を考えない)

この性質を有する参加者の形式化躊躇は特に厄介です。全てのカリキュラムは嘘をつかないことを前提とした信用に基づき運営されるのであり、そこに嘘が生じてしまうとまた別の防衛策が必要になります。例えば、記事を読んでいないのに読んだ、特段興味がないのに興味深い、良いと思っていないのに良いと言う、映像講座を見ていないのに見た、理解していないのに理解した、などと敢えて発言すること。それらの動機は、高く評価されれば(気に入られれば)フリーマネー、無償でリソースが得られるからです。しかし、カリキュラムが前提としているのは、参加者が「映画作家として学びたい」と強く望んでいることであり、良い評価を受けた結果もらえる映画制作の「特大割引券が欲しい」ではありません。結果的に、この種の利己に対する防衛線は、運営側が常にバランスシートをつけること、言葉ではなく参加者の行動を絶えずフィードバックすることしかありません。塾生作品Bについては、単純にこのバランスシートが運営側の負担過多になっていました。と言うのは、塾生Bの過去4作品制作における貢献度が低く(その多くは仕事を理由とした欠席)、逆に自身の監督作品においては私を含めた他の参加者の時間、労力、お金、責任(車の運転)、そして私財を費やすことを厭わなかったものです。これは、塾生B作品のために仕事を断っていた私とはまるで逆でした。作品中止となった日の直前においては、ある程度強めのコメント合戦があり、他人のリソースを使いすぎであるとの指導に対し、塾生Bの態度は「(必要なものは必要だ、それが嫌なら対案を出せ)」、と言う極めて無礼なものでした。さて、その要求に対して、これまでプリプロから多くの時間を費やし、自分の仕事を断り、自分のプロジェクトも停止し、全ての機材を出し、車も出し、運転までして差し上げていた私が「はいそうですね」、と言ったか言わなかったかはご想像にお任せします。これに対して、塾生Aの過去作品に対する貢献度は極めて高く、映画の会第一回映画の助監督、第二回映画の撮影監督補、第三回映画のAssistant Creatorといずれの作品も大きくサポートしてくれていました。

謂わゆるコスパ優先なわけですが、その人の目的が自作品の映画化だとすると、形式化作業の多くを他者に任せればそれだけ自分が費やす時間や労力、そしてお金といったリソースは減ることになります。ですから、可能な限り他人のリソースに頼るというのはもはや自然の成り行き、理に適った流れです。しかし、他人との相対的勘定が大きな問題なのは、その損得はあくまで自分だけの範疇で測られる、ということです。これは自分が得をしさえすれば他人に損をさせても良いという考え方、あるいは他人の損失には無関心といった利己を止めるのは各人の倫理観にのみ委ねられることを意味します。相手の倫理観にお任せというのは、性悪説を唱える人々にとっては頭痛のする話ではあります。

監督志望が形式を自ら創造しない理由の3番目は、とどのつまりは勉強が面倒臭いと言うものです。形式化には技術が必要、技術を得るためには広い意味での勉強が必要です。これは損得や脳みそ優先と似たような印象を抱くものの、単にインプットとアウトプットのサイクルが面倒と言うだけなら改善の余地はあります。

③ 勉強するのが面倒 → 継続的なインプットとアウトプットのサイクルが苦手

やる人は自主的に学んでいますし、そうでなくとも追い立てられてやる人も多いでしょう。やっている人の10割はどちらかです。しかし、パートタイムで失うものもないカリキュラムの中ではそもそも尻尾に火はつかず、その十割の中にすら顔を並べることはできません。勉強するのが面倒というのは、ほとんど全ての参加者に当てはまったでしょう。勉強が文章を読んだり、数式を解いたりすることを意味する場合は確かに面倒です。しかし、ここで言う勉強というのは、インプットとアウトプットのサイクルのことです。インプットの定義は幅広く、感覚を用いて受容した全てがすなわちインプットになり得るので、外を歩いて景色を見たとしても、映画を見たとしても、音楽を聞いても、人と会話しても全部インプットです。一方のアウトプットは先の通り形式化です。感覚で受容したものを何らかの形に変えて世の中に現す。文章である必要はなく、映画作家なら映画形式として表現する。別に歌ったっていいし踊ったっていいものです。

実際問題、令和5年の現在においても理論のインプットはそのほとんどを言葉(主に読むこと)に依存します、理論と実践にはフィードバックが必要不可欠なので、多くの人にとっては面倒この上ないものですが、先述のように塾生作品で成功を収めているAは常に経験先行で、あとは理論を少しずつ地道に取り入れ、試行錯誤していく手法をとっています。誰で理論と実践は簡単にできることではないので、少しずつ、で本来問題はないものです。しかし、経験は言葉に依存しません。参加者Aの助言を受けて確信したのは、インプットとアウトプットのサイクル(経験)を自主的に積めない理由は、単に勉強するのが面倒というのではなく、何をすれば良いのか分からないからではないか。分からないから面倒なのですが、単に面倒臭いと言っても、技能の階層に応じたカリキュラムがないと、それについていけず、やがて学びのサイクルから遠ざかってしまうのではないか。こう考えるとき、この③の対策として考えうるのは、どのようにして参加者に映画作家としての成長のために、「経験」を先行させることができるのか、経験ベースとその支援です。これについては後の「未来に向けて」で詳細を述べます。

監督志望が形式を自ら創造しない理由の4番目は、「失敗が怖い」です。我々にとって、この「生き辛い」世界をそうしている理由の大きなものは、この失敗に対する恐怖でしょう。どうすれば失敗になるのか? この世界で失敗するために必要な最初の条件は、形式化です。

④ 失敗が怖い → 形式の創造者でないものには、責任が生じない

例えば、道端でうんこをしたいと思っただけでは今の所逮捕されません(失礼)。反対に、実際にそうすればお国によっては逮捕されるでしょう。逮捕される理由は道端に落ちているそのあれです。私たちは形を残してこそ初めて責任が問われるわけです。その昔形式主義が行き過ぎたと前述しましたが、私たちは現代においても十分に行き過ぎた形式優先の時代を生きています。形式主義はむしろ、作家が形式の意味を独占できないことに気が付いた作家主義に対する新たな視点であり、作家が支配し得るのは結局形式だけである、という寂しいがある種の純然たる現実を我々に突き付けるものです。そして、我々が形式の創造を恐れる理由は、その意味を我々自身が独占できないことに起因し、それは先述のBarthesによる作家の死に似ています。私たちは、私たちが生み出した形式の意味を、自分ではない誰かに逆に支配され(押し付けられ)、さらに攻撃されることをもっとも恐れているのです。

例えば言葉です。ある言葉を抜き取って侮辱だ中傷だと相手を攻撃する人は一定数います。メディアやインターネットでは誰かの何らかの言葉を抜き取って失言や暴言とのラベルをはり、攻撃していることがよくあります。頭をこつけば問答無用で暴力だといいますし、国によっては女子の肩に触れるだけで訴えられかねないでしょう(場合によっては親族に殺されます)。全ては、その人が残した形式にかこつけた責任追求です。その一方で、経験豊かな人々は、言葉や行動といった形式が同じでも意味が違うことを薄々知っています。それが嘘だと思う人は太古の昔にその形を作られた遺物、例えば埴輪を想像してみてください。我々の誰もそれがなんのために作られたのか、その意味を知る人はいません。我々にできるのは解釈だけです。時間と空間を隔てれば、作家がその形式に込めた意味は伝わらなくなります。発し手と受け手に同じ前提があって初めて、形式の本来の意味はある程度スムーズに伝わるわけです。大事なのはいつでもバランスですが、今の世の中では、この他人による形式の意味の支配が、あまりにも行き過ぎていると言えます。それは時に、誰かを咎めるために、攻撃するために使用されている。それは詰まる所、形式の意味の独占に当たります。形式の発し手と、受け手に置いて、受け手や第三者が決めた意味が優先されるからです。それは、自分の行動の意味を自分で定義できないのだから、行動したら何を言われるかわからない。だから行動しないほうがましである、となるのも頷けます。

当然、映画作品を作れば、形式が残りますので、失敗します。失敗の種類は様々です。例えば、作家自らが「やっちまったな」と思うこと全般を失敗としてみましょう。作った当時はその作品に納得していても、時が経つにつれ見返したくもなくなるといったケースはあり得ます。私などは完成したその日からもう二度と見ない作品すらある。思い入れがあり真剣に長い時間をかけて作った作品ほどこの傾向が強い。このことは、我々が日々変わり行くことを示しています。あの時の私と今の私は異なり、あの時の私がその形式に込めた意味があの時の私にさえ独占されず、今の私は異なる意味を見出している。今と昔の自分を異なる人間である、と理解するとき、これは他人と自分との関係にも当てはまることに気がつかされます。基本的に、形式から受け取る意味が個人によって異なるのは当たり前のことなのです。だから解釈は人の数と同じくらい存在する。では、作家として自分が形式に込めた意味が、そのまま受け手に伝わらないことが失敗なのでしょうか。前述のように、時間と空間を隔てればそれは免れないことだということが分かります。友人仲間内ならせめて近似値、でも海の向こうの人に同じ意味を伝えることはとても難しい。それはひとえに、自分がうまくできなかった、と感じたことは失敗です。受け手にうまく自分の意味したことを伝えたかったのにできなかったのであれば、それは失敗に数えられます。技術では例えばカメラの扱いでフォーカスがまずかった、と思えばそれも失敗に当たります。重要なのは、それを失敗と認識しない以上は改善する動機が生じず、自分が成長できない、という点です。その失敗を自分のものと認めなければ成長できない。

自分で形式化に失敗しなければ、より良い形式は創造できない。

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しかしこれには、先ほどの利己による損得勘定も密接に関係してきます。生きている限り、失敗は必要不可欠です、それはより良い結果を産むための学びとして機能します。しかし、その失敗を他人に肩代わりさせた場合、その失敗によって得られる学びは無くなります。言い換えれば、自分が痛い目を見なければ改善しなくても問題ありませんから、そのような失敗はその程度のもの、身銭を切らない人の言葉は軽いのと似ています。映画作家として成長できるかできないかは、自分の失敗として認識したものがその形式化においていかに大きかったか、そしてどれくらいあったかにかかっています。しかしここで注意すべきは、脚本がまずかったと思ったのなら、それは次回の脚本の改善につながりますが、これ自体は映像制作講座序章後編で説いているように、脚本は映画形式ではなく文学形式のため、この反省自体は次回の映画形式の改善にはつながりにくいということです。

先述のように、作品Bで大問題だったのは、監督が映画形式化の多くを他者に依存していたことでした。この点、その監督は特に制作に関連する作業をそつなくこなしていたため、これが育成ではなく営利の制作事業なら演出よりも制作を勧めていたところです。しかし、映画作家の育成事業ですから本人が求めるものを否定する訳にも行かない。特に撮影照明においてはほぼ他人に丸投げ状態であり、というのも、もともとその参加者の入会の動機が、私松村がオンラインにアップしていた動画を見た上で、その作風が気に入り、松村に撮影を任せれば似たような”感じ”になるだろうと思ったからのようです。映画塾の理念をこの時点で無視しているのは言い添えておきますが、もし監督が映画形式の責任を取らないのであれば、例えば前作の撮影が気に入らなかった場合、次回作では別の撮影を使えば良いことになります。反対にその撮影が気に入ったとしても、ずっと一緒に仕事ができる保証はありません。そこに見え隠れするのはやはり、自分の目的の達成を最優先に考えていること、そのために他人を駒のように使おうとしていることです。私自身、そうした需要があるというのは理解していますし、むしろ普通のこと、それがビジネスです。例えば、私の持つスキルを必要とする方々から仕事の依頼を受け、今日までなんとか食べているわけです。しかし、なんでもかんでも依頼を受けることはしません。例えば、タダで働いたことはない。私が映画の会塾で唱える理念や目標(つまり要求)と言ったものに一切従わず、私の能力の提供を要求するのであれば、それはすなわち「それに見合う金を払え」という話になります。

形式化の絶え間ない向上にはその失敗を自らのものと認めなければならず、このためその失敗の多くを肩代わりしてくれる人の存在は本人の成長の大きな妨げになります。それは同時に周囲の損失にもつながりますから、新しい映画作家育成の場においては、②の利己による損得勘定を優先する人が他者を搾取することを防ぐ仕組みが必要、参加者が形式化の失敗を自ら行うことが大きな目標になるでしょう。

長くなりましたので、ここで④の結論をまとめますと、まず、自分とは違う人(未来の自分を含む)に形式の意味がうまく伝わらなかったり、その技術が乏しかったりするというのは明らかに必要な失敗です。大切なのはその失敗を自ら経験することができ、さらに自分のものとして消化できる環境あるいはシステムが必要であるということ。そして答えていないもう一つの難題、他人による意味の独占と押し付け、それによる貴方への攻撃についても述べましょう。貴方の生み出した形式の持つ意味の独占と押し付けそして攻撃は、断じて許容しないことです。もしこれに遭った場合は反論、そして必ず報復しましょう(すぐである必要はない)。映画作家として他人による意味の独占、その押し付けに対する反論には一貫して次の二点が有効です。

  • 形式の意味を自由に解釈することは許すが、その独占は許容しない。(警告)

  • 映画の意味はすでに映画で伝えており、これを言葉で代用することはない。(相手の前提に従わないことの意思表明。映画は映画形式で意味を伝える芸術であり、言葉に変わるものではない)

無論、何を攻撃と見なすのか、そしてどれくらいのリソースをその反撃に費やすべきかは、経験を通して学ぶものです。取るにならないと思えば無視すればよい。逆に荒ぶりすぎると映画を作る時間が無くなります。小男が大男に喧嘩を打っても勝てません。自爆するつもりならまだ負けませんが。自分のために死ぬのはとりあえずやめておきましょう。

長くなりましたが、「四年目の反省|映画作家育成事業のこれまで」はここまでになります。私塾を含んだ私設団体というのは、これからの世界を共に生きていくための共同体を理想としたものですが、損得至上のメンバーばかりが集まっていたのではなかなかうまくいかない。今後も試行錯誤を続けつつ、未来に向けて具体的に何ができるのか、どうしていくのか、後半の「未来に向けて|映画作家育成事業のこれから」に続きます。

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