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脳化社会と多様性: トランスって何?

自身が生まれてから経過した時間も、また自分の身体も、それらによって得られたはずの感覚と経験すらも無関係に、脳で決めた自分の年齢を自由に他人に強制したいというのは、明らかに脳化社会の流れの一つである。

ところで、年相応の見た目、ということを厳密には定義することはできない。なぜなら概念は個々の具体例に適応できないからである。10歳男児の身長と体重を一般化してみると、平均は出ても、その平均を構成する個人は実に様々である。難病で10歳なのに老人のような見た目をしている、ということもあるだろうし、成長が進まず赤子のような個人もいるだろう。ところで、そうした生まれてから10年の男児がいたとして、他人は自分の好きに、思い通りに、その人間の年齢を予想することができる。例えば、アメリカで私は実際の年齢よりも若く見られることが多かった。アメリカの日本人あるあるであろう。どこかの国の誰かには実際よりも年寄りに見られるかもしれない。基本的に、他人が他人をどう見ようが勝手である、ということは本来の多様の意味であり、特定の個人が他人に対して、自らのそうした「自認」を強制することは多様性とはほど遠い。

ここでの私の主張は、脳化社会に蝕まれる今日の我々は、今一度自分たちの形に自己を見出す必要がある、ということである。「人は見た目じゃない」と一体誰が言ったのだろうか、とふと思うことがある。カモフラージュとしての意識的な着飾り、装飾は意識の賜物であるとするなら、確かに見た目で判断することはできない。だがそれをいうなら「人の意識は嘘をつく」であり、その逆に意識のないところで表出する見た目はその人である。

人間と犬とでは、形、この世に存在しているその身体、それを構成する全ての物質をそのままに、中身、例えば魂や精神、心といった、その機能だけを入れ替えることはできるだろうか。おそらくできまい。我々が今取りうる形は、我々の身体が持つ機能に強く関連づけられる。私たちが今こうして喋れるのは、そうできるように身体の一部が発達してきたからである。仮に猿と人間で心が完全に入れ替わることができたとしても、猿になれば我々は喋れなくなる。私たちが今こうして考えることができるのは、私たちの脳がそうできるように発達してきたからである。猿の脳に私たちの心を植えこむことができるかどうかという話は、ゆえに本末転倒である。私たちの脳が猿になれば、私たちは今のように考えることはできまい。脳化社会は、今目の前にある世界、自分自身の身体、形あるもの全ての質量を無くそうとしているが、それは不可能である。脳化社会との戦いは、そうさせてなるものかと信じる連中の抗争でもある。私も、その争うであろう一人である。それができると嘯く機械人間たちのために私はこういう。「つまり死にたいのですね」と。我々の身体を捨てれば永遠に生きられると信じ込む連中はもっぱら頭で世界の予想ばかりを立てている。機械はいわば死んでいるのである。

脳化社会は意識の世界であり、唯一で真の存在をその論理の主語に用いたがる。ゆえに、全てを同じにしようとする意識と多様性というのは、本来は程遠い概念である。そのどこにエラーが生じて、我々の脳があるいは多様性を訴えているのだろうか。もともと、世界は多様である。しかし、その世界を構成する動植物やその他の存在は、別に意識的に多様性にこだわっているわけではない。自らの生存に精一杯である。自らの、というのは、ここではもちろんそれぞれの個体を意味する。にも関わらず、世界は多様だ。人間は逆で、世界の多様性をむしろ壊しまくっている存在である。我々は人類全てを同じにするために数限りない争いを繰り返してきた。今でもその争いは続いている。なぜこの争いが生じるのか、それは他人を自分の思い通りにしようとするからである。自分は自分、他人は他人と言うのは本来の多様性だが、我々人間の意識は環境を自分と同じにすることに忙しい。

我々人間の意識は環境と自分の予想を同じにしたがる

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その環境にはこの場合他人も入っている。その他人がお前の言うことなど聞かないと言おうものなら、争いがおっぱじまるわけである。これはトランスナンチャラと言うのが争いを産む意識の活動である証左である。その個人が男だろうか女だろうが何歳だろうが何人(トランスなしょなりてぃ)だろうが、他人の知ったことではない。他人は自由に他人をみなすことができる。好きになろうが嫌いになろうがそれも自由である。ところが、とあるちんげ付きのちんぽのついた一個人は自分を女で子供であると他人に認めろと言った場合はどうした了見か。これは単に他人に自分の言うことを聞けと言っている。他人がそれを拒否すれば、争いが始まる。

身体の”異常”で本来とは異なるカタチに落ち着いた個人は、昔から拒否されてきただろう。子供はその点素直で、異形なら見た瞬間に怖がったり気持ち悪がったりするだろう。そこを、我々の意識が「それはダメなことなんだ、思いやり」なんちゃらと言い始めたのが私の思う限りある種の原点である。その点は私も同意するのだが、なにも、異形を見て怖がったり気持ち悪がったりと言った素直な感情をおし殺させるものでは断じてなかろう。その人ががそう感じれば、それで仕方があるまい。念のため断っておくが、異形というのは見た目が各人「自分」の予想と大きく違う、と言ったこと全般を含むので、アメリカで白人ばかりの土地の黒人や日本人もそれで言えば異形であった。で、大切なのはそこからである。そうした感情がなんらかの形でその対象の知るところになれば、その対象は悲しむかもしれない。その人の身体を傷つけたり危害を加えるようなことをするならば尚更である。そうして相手を悲しませた時に、君は果たして心穏やかでいられるのかな、と言うのが教育である。それでも嫌いだ、仕方がないという奴は、しょーがない。嫌うのは勝手だが手は出すな。これも教育である。そもそも、人を好きになるのは理屈ではなかろう。恋などしようものならそれを科学的に立証せよと言う奴がいるとするなら明らかな中二病である。それはそれは、どうこうああすれば目当ての女の子の気持ちを射留めることができる、などと言う科学があった場合は大繁盛である。それができないから人間なのだ。では同じくして、誰彼を嫌いになるのもまた自然に任せるしかあるまい。そもそも、他人に嫌われることが怖いと言うのは、他人のそうした概念と、個体としての自身の乖離を恐れる、すなわち他人の予想した唯一であり真の自分自身の像と具体的な自分が異なることへの恐怖であり、そうだとするのなら、そもそも概念と身体は違うだろと言うことすら脳化社会に生きる我々は理解しづらくなっている。自分自身を知りたいのなら、他人の顔(脳)をうかがわずに自分の身体を見ろよ、と言うお話である。

脳化社会の中での多様性というエラーは、つまるところ、論理の主語の入れ替えである。唯一にして真の存在に同化されようとしていた自称弱者が、唯一にして真の存在に成り代わろうとするための手段であり、武器である。脳化社会において、多様性というのは本来ありえず、アリエルならそれは脳化社会からの逆行であり、より自分たちの身体にたちもどることを意味している。然もなくば、多様性という言葉を口にする個人の脳は、ただ自らの想像する唯一にして真の多様性を他者に押し付けようとするのみである。我々の脳が予想する多様性という概念は、それぞれ異なるからである。

結論として、「多様性」ととにもかくにも吹聴している奴がいたらそれは、誰かの受け売りをしているだけのバカか、「僕の私のいうことをきけ」と遠回しにお漏らししている奴かのどちらかだと思えば足りる。余計かもしれないが、この場合まあマシなのは後者である。なぜかって? 後者の発言はそいつ自身だが、前者の発言は誰かわからないからである。同じなはずの意識の吐息が生身の身体から発露するのだから、正体がバレると言うものだ。そしてこの多様性のお話に関する限り、日本人は前者の方が多い気がするね。

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