新・私らしさ、の捉え方
「1人の人間は、『分けられないindividual』な存在ではなく、複数に『分けられるdividual』存在である」
「たった一つの『本当の自分』、首尾一貫した、『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」 小説家/平野啓一郎さん
「あなたらしく、ありのままの自分で、と言われ続けるその幻想」
というようなことも平野啓一郎さんが動画で話していた。なるほど、と思った。
私らしさって何だろうとか、ありのままの自分をどうのこうのとこだわる必要はないってことだと理解した。
人が「キミらしいね」と言えば、その人に見せている自分からその人はそう見えたのであって、自分ごとの話ではない。その人側の話だ。
アナ雪のエルサがありのままの自分を受け入れ解放するシーン、凍らせる魔法を持つのはエルサという人物を表す一部であって、魔法以外の色々なエルサも含めてエルサらしさというのだろう。
普段の私たちが、家族に見せる自分、職場で見せる自分、子どもに見せる自分、友人に見せる自分、学校で見せる自分、1人の時の自分
そもそも、どこにいる人も一人一人違って多様なのだから、目の前の人・関係性が違えばそこで内から表れる自分が違っていることは当然なのではないか。
これまで、誰かが私といる時に見せた態度や行動、言葉、心の動きなど、そもそもそれがその人の全て・その人という人間、ではない。という当たり前のことを、これまでしっかりイメージしたことがなかった。
自分が見ているのは、その人の持つ複数の分人のうちの1人が、そこでの関係性の中で見せているものなのだと思う。
どうも、ありのままの私とは、1つでないようだ。
私らしさというものの
一つの在り方、一つの像というイメージを放って集合体のようにイメージしてみると、とても緩やかだ。
複数の場面・複数の人間関係どこをとっても、私という人間が生きている証の場であるということにかわりない。自分が望む姿望まない姿にかかわらずどれもが私らしさからありのまま表れた一部なんだ。
他者と自分、どのような行動も言動も、その間柄の中で見えたその人の一部であり私の一部なのであれば、
相手の別の場での分人たちを見えてないまま、まとめて「そういう人」と思い決め込むことは、何か違う。
人が人を決めつけるということってどういう心理なのだろう。
不安の表れとか
そう決めてしまえば自分を擁護できるとか
抱いた理想像を守りたいとか
そう思いたい・そういうラベリングをすることで安心を得るとか?
罪を憎んで人を憎まず
と子どもの頃教わった。
それは事によるし人には感情がある、そうもいかない状況はある、と思った時があった。
けれど最近は
「事によってこんな感情なんだ、許せない」というのはごっちゃにしているのではないか。分けて考えられるのではないかと思っている。
罪、感情、一つ一つは事実であって個々に分かれた存在の、別物だ。
起きた罪はその人に結果として存在し、許せない感情というものは自分の感情に存在するもので、そしたら罪は人ではない。人ではないなら、人を問題にしないで済む。人にとらわれてしまうことで苦しみ続けるという穴に落ちずに済むのかもしれない。人を許すとか許せないとかそうした憎悪の絡まりからスッと退くことができたなら、自分の傷ついた感情だけに、丁寧にいれば良い。
分人というものを考えていたら、やはり再びそう思った。
思ったけれど、ハードなことだ。人にフォーカスして人の問題として憎んでいる方が、事実、楽だ。
※これは、私の経験以上の罪や哀しみについては私にはわからない。
けれどそんな、存在の場所が違うという方法をもって日常のトラブルなんかを見ると
「その人の分人の1人」と「私の分人の1人」との間のことなんだと俯瞰的に見れたり
この感情は私の感情で相手のものではないよなーと分けれたり
あのタイミングだから起きたんだな、10分後なら色々違って展開も違ってたかもな、なんて風にタイムトラベル映画!?のように見れたり
(アンガーマネジメントもタイミングをズラすということでは似てる気がする)
なんか、ごっちゃにならない。のみこまれない。
けっこう穏やかだ。
そんなことも踏まえて、
こんな自分、あんな自分、あの時の自分、あの人の前での自分、この人の前での自分、どれもこれもバラバラでそれぞれで、それで良いみたい。
以前、「私には私らしさというものがない」と書いた。そうではなかったのかー、と今思う。
自分を「こうでない私は私ではない」「こんな風な自分でなければ」と自分像を一つに定めることがどれほど無意識に自分を苦しめているかということに気づく。
そう思いやすい自分がいることにも気がつき、
どうして私は必死にそう思いたいんだろう、決めつけたいんだろう、と立ち止まり、そこにある自分の心の声に、耳を傾けていたい。理由があるはずだから。理由がわかったら紐は解いていける。
アイデンティティは複数あって自然で健康らしい。その場所・その場面・その人との中で自分の表れに落ち込んだりしんどかったりしたとしても、別の場所・場面・人という環境、分人が多ければ多いほど、なんだかなんとかなって生きていきやすそうな気がする。最近でよく言う、所属の場を増やして依存先を増やして生涯的自立していく感じとマッチする。色々な自分が存在する人生って、良いね。
平野啓一郎さんの本をまだ読んでないので、こういうことではないかもしれないけれど、考えるキッカケをくれた、冒頭に載せた言葉
「1人の人間は、『分けられないindividual』な存在ではなく、複数に『分けられるdividual』存在である」
「たった一つの『本当の自分』、首尾一貫した、『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」
ということが書いてある本を、一度じっくり読んで改めて自分の中で考え直したい。
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