徳川家康さま☘️をたどる#27☘️姉川のイチャモン😂
初筆 2023年 3月 24日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#27
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1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
家康さま、朝廷に献金した直後、上洛したりなど、
中央との人脈構築に忙しい中、信長さまの援軍として
金ヶ崎の朝倉攻めに参戦❗️
しかし、浅井長政さまのご謀反により
信長さまは、退却現場処理と殿(しんがり)を
木下藤吉郎さまにご一任し、急遽撤退❗️
またしても最前線に取り残される家康さま
いちおー引間城(直後に浜松城)には
帰れたようですが、現場ではこーいう「引き」を
お持ちのようですねえ🤣
⬇️前回記事はこちら
3 家康さま引間城に戻るもスグ姉川へ
1570年・元亀3年、29歳の家康さまは忙しい❗️
時系列に家康さまの行動を列挙してみます。
3月、信長さまに従って上洛
4月、越前朝倉攻め→金ヶ崎の退き口
6月、いったん引間城に帰還、改修→入城、引間を浜松と改める
8月、信長さまの要請に従い姉川の戦い参戦
このころ武田信玄さまと絶縁💦上杉謙信さまと同盟
10月、15代室町将軍の要請で京都東福寺・清水粟田口に着陣(お付き合いの着陣😂)
現代のように鉄道や飛行機がるわけでもなし
浜松〜京都・近江までの行軍は10日ほどかかるはず。
そして、時間もかかりますが、予算もタイヘン❗️💦
三河・遠江の領国経営がうまくいってたんでしょうね
4 姉川の戦と家康さま
東近江浅井家・越前朝倉家の弱体化の起点となった
姉川の戦いは1570年・元亀元年6/28(旧暦)に
突如として開催された戦ではなくて、
前哨戦がいくつもあり、流れとして
姉川をはさんで、浅井・朝倉🆚織田・徳川、双方の
軍が対峙し総決戦となった戦です。
織田家はもとはと言えば、15代足利将軍義昭さまの
朝倉攻め要請が起点の戦であり、当事者です。
また朝倉家は攻められた側であり、やはり当事者。
浅井家は越前朝倉さまとの同盟関係があり、
東近江は越前と面していて地理的も当事者です。
ならば、徳川家、家康さまは❓
軍の人員調達や兵糧米などすべて自前なのに
浅井・朝倉家と直接対峙関係もないのに
なぜ参戦しているかというと
織田信長さまと同盟を結んでいるから。
もちろん三河は織田家所領の尾張と隣り合わせで
万が一織田家が弱体家することがあっては
家康さまご自身の所領が危うくなってくる、
という表向きの理由はあるでしょうが、
ここはやはり
信長さまに参戦要請されたらイヤとは言えない、
言ってはならない、信長さまやっぱりコワイ
ってのが1番大きな理由ということにしておいたほうが
面白いので、そうしましょう😂
実際、家康さまが姉川参戦承諾し即刻出陣したことは
信長さまを体操喜ばせた、と三河物語にあります。
5 信長さまにイチャモンつける家康さま😂
家康さまは信長さまに2番隊を申しつけられます。
ここで家康さま、プチキレ😂😂😂
「ブチ」ではなくて「プチ」っぽいです。
家康さま、どうして自分たちが1番隊でないのか、
と信長さまにくってかかります。
ちなみに1番隊というのはその名の通り、
合戦始まったら最初に敵陣に突撃する役割、
危険も伴いますが、手柄も立てやすい。
三河物語に記されているイチャモンを話していきます。
当初の予定では1番隊は、
柴田勝家さま・明智光秀さま・森可成さま
の予定だったのですが、
「どうせ加勢するのなら1番隊をお申し付けください」
と家康さま。
それに対して信長さまは
「部隊の編成はもうできていて、かれらに2番隊を
やめさせるのもどうかと思う。
できることなら2番隊を引き受けてはくれないか。
戦況によっては2番隊も1番隊と同じような戦闘になる
こともある」
かなり気を遣った言い回しですねぇ💦
家康さま引かない
「1番隊に決まった皆さまに2番隊になれと言いにくいのはわかる」
いちおー気を遣ってるフリをしてから😂
「1番隊も2番隊も同じというのは納得できないです。
結果、激しい戦闘になり1番隊同様の戦況になったとしても
後世の書物には家康2番隊だったと掲載されるだろう。
30歳にもならない者が、援軍にやってきて
1番体を命ぜられずに2番隊だった、と、のちのちまで
言われるのはイヤです」
意思表示すごいし😂
「1番隊でないなら参戦しません。
1番隊でないなら今日軍を引き払って帰ります」
と言い切ったもんだ、
アンタ信長さん怖かったんちゃうん❓😂😂😂
信長さまここで折れます。
「家康がそう言ってくれるのはよくわかった、
ならば1番隊を頼もう」
信長さまは家臣から出る不満を一蹴したとのこと。
むっちゃ気を遣ってますね。
家康さま文句言い出したら引けんようになって
あるいは、我を忘れて言いまくってしもたんちゃうやろか😂
それから、このころには、信長さま、家康さまが
遠江切り取りなどを経てつけてきた実力を
お認めになってらしたのかもしれません。
結果からすると家康さま1番隊は正解で、
信長さまの軍は本陣近くまで攻め寄せられて
信長さまピンチとなるも、
家康さまは敵陣に攻めかかり打ち破った、
敵陣深くまで攻め入り浅井・朝倉勢はやむなく退却、
と三河物語にあります。
この戦闘では、家康さまが敵陣が
横に伸びきっていて横から攻めると
敵陣を崩しやすいとご判断、
榊原小平太康政さまがそこに突撃成功したと
言われています。
これが事実なら家康さまのご成長著しいと言えますが
榊原小平太さまが22歳の血気盛んな若さで
突撃したんちゃうかゆう気がせんでもない😂
6 信長さまのお褒めの言葉、家康さまの名誉
戦が終わって信長さまは家康さまに
お褒めのことばをかけました。
「今日の合戦は家康の手腕でわたしも名をあげることができた」
先に話した、当事者ではないのに
姉川の戦いに参加した家康さま、実は
名誉を得ることが目的だったのでは❓
本人が自覚してるかどうかは別として。
家康さまは織田家の家臣ではなくて
同盟関係、あるいは、兄弟扱い。
だからこそ、織田信長さまとの初の本格的共闘である
姉川の戦いで、織田家の内部で、
信長さまが兄弟と言ってるだけの兄弟、という立場から
実力があっての兄弟である、という認識を
織田家の内部に知らしめるという目的を
家康さま達成できたんですねっ❗️
最初からその気あったんか
たまたま流れでそうなったんか、は知らんけど😂
8 次回
姉川の戦いの後始末の様子はどうだったのかを
話しつつ、このころから徐々に関係が悪化し
姉川の戦いの数ヶ月のちには絶縁となる
武田信玄さまと家康さま💦
そして、せっかく織田家の中で名誉を得た
家康さまはその2年しないうちに、戦でボロ負けッ💦
武田信玄さまの赤備え隊が浜松に迫るっ❗️
家康さま、大ピーーーンチっ
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