徳川家康さま☘️をたどる#26☘️金ヶ崎の退き口
初筆 2023年 3月 17日 / 加筆修正 未
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スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#26
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1 コンセプト
徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
三河物語 / 大久保彦左衛門忠教さま著
信長公記 / 太田牛一さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
⚫︎織田・武田同盟を受けて家康さま、遠江侵攻。
想像できる家康さまの気持ちは
「今、忙しいねん、堪忍してえな」🤣
⚫︎武田信玄さまとの協約で、境界線の「川」をめぐり
信玄さま・家康さまの間で摩擦が始まる。
・天竜川:信玄さまの解釈(意図的かも)
・大井川:家康さまの解釈(素直な駿遠境界)
⚫︎2カ国の国持ち大名となった家康さまの
想像できる気持ち
「もうこれくらいでええやん」🤣🤣🤣
3 家康さま京へ
その後、家康さま、遠江事情が着いたのか
1570年・元亀3年3月、信長さまに従って上洛します。
その直前、家康さまは正親町天皇からお父様の
後奈良天皇の13回忌の費用を調達せよという
勅命を受け、二万疋を朝廷に献上。
「疋」はこの場合、朝廷に献上する金銭の単位で
時代にもよりますが、100疋=だいたい金1分=20000円
なので二万疋=金200分=
今のお金でざっくり400万円くらい❗️
これは信長さんにも朝廷がそいう要請を
家康さまにしたという情報が入っていて
遠江侵攻中の家康さまを信長さまは心配し
勅使に「家康が出せなかったらワシが立て替える」
言うたくらいで、戦闘状態の徳川家にとっては
大金で、家康さま、ひーーーーっ、状態やったと
推察できます。
どないして調達したかまではわかりません。
せやけど、朝廷に顔をつないでおき
徳川家康、いう名前と存在を朝廷の記憶に
留めよう、そのために献金をした今こそ
上洛すべし、いう家康さまのお考えは
ご自身のお考えやったのか、有力家臣からの
助言やったのか、そろそろ成長してきてても
ええよね、家康さま😂
4 家康さま金ヶ崎攻めに参戦
そのその直後、1570年・元亀3年4月
信長さまの依頼で、越前朝倉氏攻めに参加します。
この信長さまの朝倉攻めは15代室町将軍義昭さまの
意向を受けた官軍の戦でした。
家康さまは自分の領地拡大ではないのに参戦したのは
官軍に参戦=ますます名前を売る
いざというときのため信長さまに恩を売っておく
単純に信長さま言うこと逆らったら恐いから
のどれやろ。たぶん一番下がほんまの理由で
上2つは自分への言い訳なんちゃう❓😂
5 金ヶ崎の退き口
金ヶ崎を陥落させ、徐々に朝倉一族をおいやっていた
信長さまに浅井長政さまご謀反との情報が伝わります。
浅井長政さまは信長さま妹お市の方をめとった方で
信長さまにとって義理の弟、実際に懇意のお付き合い
でした。
その長政さまが信長さまを挟み撃ちにしようと
出陣したという情報が入ったのです。
信長さまは第一報くらいでは信じませんでしたが、
続々と入る、長政さま裏切り、翻し、出陣などに
こりゃいかんと、戦闘状態の金ヶ崎処置は
木下藤吉郎さま(のちの豊臣秀吉さま)に
ほぼご一任なさり
信長さまは馬廻のみを引き連れて
単身、京へ戻りました。裏街道をひたすら
馬を走らせたとのこと。
ちなみにこのとき、信長さまは
藤吉郎さまを金ヶ崎城に入れた=殿(しんがり)を
勤めさせた、と信長公記にあります。
浅井長政ご謀反から信長さまの迅速な撤退
織田徳川連合軍までの一連の流れを
金ヶ崎の退き口 と言います、
6 家康さま最前線に取り残される
さー、信長さまの迅速な撤退に
現場は混乱するかと思いきや、
たぶん藤吉郎さまの適切な情報伝達が
よかったのでしょう、
たいした混乱も被害もなく、また京への帰途中に
要所要所を攻めつつ、織田軍は撤退した模様。
ところが❗️
徳川軍には情報伝達が遅かったのか、
最前線にまで深入りしてたせいか
藤吉郎さまから信長さま撤退を聞かせれたとき
またしても、ひーーーーーっ❗️💦💦やった思います。
桶狭間に続いて最前線に取り残されるケース・ツー❗️
ですね。
三河物語には
「信長さまもこれは難しいをお考えになり
家康さまを最前線に残したまま、何の連絡もなく
宵のうちに退却した」とあります。
さらには
「家康さまはそのことをご存知なかったのか
夜が明けて、木下藤吉に案内させて退却した」
とあります。
歴史ドラマなどには
兵糧米を捨てずに退却したので退却が遅れた(退却時は通常、兵糧は捨てて帰る)家康さまは立派だ、とか
木下藤吉郎さまとともに殿(しんがり)を勤めた
などと描かれることありますが、三河物語・信長公記
どちらにもそんな記述はありません。
最前線にまで入り込んでいた(であろう)家康さま
お気持ちはたぶん、まずは「聞いてねーよ」でしょうね。
それは聞いてないでしょ。
信長さま自身、緊急事態だったから。
そして木下藤吉郎さまから聞いた家康さま
もしかしたら、ムッとしたのかも。
このころの徳川家は織田軍の中では助っ人
・会社で言うたら契約社員
・すじもんで言うたら狭客
会社なり一家からすると客人扱いなのに
情報伝達が遅れ、ぺーぺーの社員に
「はよ逃げんさーせ」などと言われてる。
まあとにもかくにも
家康さま、この直後には引間城を改修工事し
浜松と土地名をあらため入城してるので
結果スムースに撤退できたんだろうとは思います。
それにしても最前線に取り残されやすいなあ
家康さま、引きが強いんだか、弱いんだか
7 次回
浜松に帰っていた家康さまのもとへ
またしても信長さまより援軍依頼がっ❗️
そして家康さまは近江に出陣します。
俗に言う 姉川の戦い っ❗️
朝倉・浅井連合軍🆚織田・徳川連合軍のこの戦で
家康さま何を考えたか、
信長さまの文句言いまくり❗️
あんた信長さま恐いんやったんちゃうん❓❗️
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