見出し画像

徳川家康さま☘️をたどる#4☘️大原雪斎さんと竹千代君

この記事は有料ですが、しばらくは実質最後まで無料で読めます。
今とこ有料部分の文章は「ご覧いただきありがとうございました。」
のみですよ🤪✋

またこの記事と同じ内容を音声で聞けます。
スタエフ配信:徳川家康さま☘️をたどる#4
⬇️
https://stand.fm/episodes/639ef84b344e4bc9a08c1b0f

1 コンセプト

徳川家康さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
家康さまやその周囲の方々が
こんときはこー
こんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつ
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。


2 前回


家康さまのじいさまの清康さん
けっこうできる人みたいやねんけど
徳川家の祖先はすごいゆう権威付として
話を盛ってるかもゆう話をしました。

順番から行くと家康さんのお父さんの
広忠さんの話をしたいのですが、
リスナーさんはたぶん
「早よ家康さん行け」
思うてはるやろから家康さん行きます。

前回記事はコレですよ😀
⬇️

3 竹千代君は誰にどこでどのような教育を受けたのか

今回は家康さま
今川家人質時代、つまり、
竹千代君から松平次郎三郎元信〜元康時代
誰から指導を受けたのかを
話していきたいと思います。

当時、今川家には

大原雪斎(おおはらせっさい)

という坊さんがおりました。
が、世は戦国、坊主というのは
時としてあるいは惣国(戦国大名自治区域ということ)
によっては軍師を兼任してることが多かった。
大原雪斎さまもその1人

他の例:
北条家:板部岡江雪斎さま
毛利家:安国寺恵瓊さま

大原雪斎は今川義元時代の
今川家の実質No.2
人事・政治・軍事・経営
すべてを渋々であるが取り仕切ってた
と言われてます。

そしてその方が
当時の竹千代君を指導していた。

※ただし竹千代君が幼年期〜青年期に
 雪斎和尚は京都に居たという説もある
 ぶっちゃけ竹千代さんに指導したのか
 どうかは史料から確実には読み取れない
 とのこと

なので仮に雪斎さんがダイレクトに竹千代君に指導した、
(あるいは、雪斎さんの高弟が雪斎さんの教えを
 確実に竹千代君に指導した、でも可)
という仮定で話を進めます。

大久保彦左衛門著の三河物語では
家康様は人質時代
(今川家家臣時代でいいかも)
の1558年、ご自身が総大将の
の大高城兵糧入れという行動作戦で
成功を収めその後、西三河地区を城を
次々と落とし

『その采配ぶりは清康さま(じいさま)にそっくりにお育ちになった』

とあり、
人質時代に大将としての
十分な知識と技術、実戦経験を
蓄えていたと考えられる。

4 大原雪斎さんは今川家No.2後継者を育てていた?

それらは大原雪斎さんに
指導を受けたものである。
雪斎さんも人間ですから
今川家の義元さんやその子、氏真さんに教えるより
ガツガツ学ぼうとする
竹千代君に教えるほうが楽しかったし
先のことを考えると
今川家No.2はこの竹千代君を
自分の後継者に、という考えも浮かぶはず。
軍師は何年も先を読んで手を打つはずなので。
実際、雪斎さんが生きている間は
義元さん、氏真さん、竹千代君とも
その方向に向かって生きているはず。

5 幸か不幸か雪斎さまご逝去が運命の分かれ目

雪斎さん1555年、
桶狭間の5年前に亡くなってしまいます。
後年、家康さまは

「今川家は雪斎がいなくては回らない家だった」

と発言しています。

桶狭間のとき雪斎さまがご健在で
今川義元さまも亡くならず
京都まで進軍できてたなら
松平次郎三郎元康さまは
今川家のNo.2つまり
雪斎さまの後継になっていたことであろう。

実際の歴史とこの仮の歴史
実際の歴史の方がきっと
現代に生きる私たちにはよいものであったような気は漠然と感じますが、
家康さま個人の人生としては
No.2でいるのと、天下太平を保つ責任あるNo.1と
どちらが幸せであったでしょうか



ここから先は

18字

¥ 100

期間限定 PayPay支払いすると抽選でお得に!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?