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徳川家康さま☘️をたどる#62☘️関ヶ原戦後処理と征夷大将軍🔥
初筆 2023年 12月 1日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける: #徳川家康さまをたどる 62
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1 コンセプト
#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 さまやその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
#信長公記 / #太田牛一 さま著
2 前回からのつなぎ
前回は以下を話しました❗️
1600年・慶長5年9月14日 #家康 さまは美濃赤坂の東軍陣にご到着。この時点で家康さまは野戦で即決プランを取り、遅延する #徳川秀忠 さま率いる徳川本軍を見限った❗️
#石田三成 さまの敗因は #豊臣秀頼 さまをげんばに連れ出せなかったこと❗️
関ヶ原の戦の終戦時間はかつては16:00くらいと言われていたが、近年の一時史料発掘で、開戦後2時間程度で終わった説が有力。 #小早川秀秋 さまへの東軍加勢が完成直後であったため。
家康さま無事大坂城西の丸に帰城❗️関ヶ原を制したことで政敵を駆逐した家康さまは、世間に広く天下人と呼ばれるようになったが、いまだ豊臣政権内での執権としての天下人であった💦
⬇️前回はこちら❗️
3 59歳からリスタートする家康さま☺️
1600年・慶長5年、関ヶ原の戦に勝利した
家康さまは御歳59歳。
皆さまはどうでしょう❓
関ヶ原の戦で天下を取った家康さまという認識では❓
その3年後には家康さまは #征夷大将軍 に任官されます。
そのためか、関ヶ原に勝利=江戸時代前夜、そして、
征夷大将軍任官で江戸時代は始まった、
そんな認識が一般的なのでは、と思います。
しかし、決してそんなデジタルに、ぱしっと
1603年・慶長8年から、
江戸時代がスタートしたわけではありません。
関ヶ原の戦で、家康さまは政敵はほぼ駆逐しました。
しかし、世間の認識は、豊臣政権の執政者は家康さま、
しかしその上には政権代表者として、 #豊臣秀頼 さま
が鎮座なさってる、という状態でした。
さて❗️
家康さまを語るに当たってここからが面白いのです❗️
徳川政権を確実にするために、後世に憂いを
残さないようにするために、家康さまは
どのように勉強し、どのように覚悟を決め、
どのように政治に反映していったのか、
これを語っていくのが家康さまファンの醍醐味なのです❗️❗️
4 関ヶ原戦後処理の処罰と減封
まず家康さまは、1600年・慶長5年10月1日、
・ #石田三成 さま
・ #小西行長 さま
を京都六条河原にて斬首😭💦
自害なさった三奉行の1人の
・ #長束正家 さま
の首とともに三条大橋のたもとに晒しました。
豊臣政権内でクーデターを起こし
多くの戦死者を出すことになった、というのが罪状で、
晒す、というのは、世間に誰が戦を引き起こしたのかを
理解させる意味があります。
次に西軍の首謀ではないが、関ヶ原において
反徳川勢力に与した大名は減封や改易としました。
戦後スグ遮断された大きな減封や改易は以下です。
#毛利輝元 さま。家康さまは改易処断をしようとしたが、親戚筋で関ヶ原では家康さまに内応した #吉川広家 さまの取りなしで、吉川広家さまにあてがわれる予定だった土地に減封。
#長宗我部元親 さま、改易
以上が関ヶ原の戦後、スグに執り行われた
領地仕置きでした。
また少し遅れた仕置きの大きなものは
#上杉景勝 さま。1601年7月やっと伏見に上洛。家康さまに従属。出羽国米沢領30万石に減移封。
#佐竹義宣 さま。1602年5月、出羽国秋田領20万石に減移封。
でした。
5 関ヶ原で働きのあった諸将への加増1
減封や改易のあった分、関ヶ原での功績を
認められて加増された諸将も数多くいました。
まず、家康さまは、東軍にいた豊臣恩顧の大名に
以下の処置をなさいました。
大きく加増
ただし加増移封で移封先は京大坂から遠く離れたエリア
例を見ます。
#福島正則 さま。安芸(広島)
#黒田長政 さま。筑前(福岡)
#池田輝政 さま。姫路(播磨)
#山内一豊 さま。土佐(高知)
#藤堂高虎 さま。伊予東部(今治)
などです。
これらは西方へ移封のほんの1部に過ぎません。
豊臣恩顧の諸大名は
こぞって京大坂から遠ざけられました。
ここで枝葉を少しだけ話します。
藤堂高虎さまも豊臣恩顧の大名でしたが、
秀吉さま付きの家臣ではなくて、
#羽柴秀長 さまの家臣でした。
そして秀長さまがお亡くなりになると
早いうちから、実質、家康さまに臣従、
関ヶ原の頃には徳川家臣団の譜代なみの扱いを
受けていました。
なのに、高虎さまは伊予、四国の愛媛県に
加増とはいえ、京大坂から遠くに移封❓💦
これには意味があります。
家康さまは高虎さまに瀬戸内海の防備を
任せたのです❗️
いざ戦闘があったら、ということもありますが、
それよりも平時の豊臣恩顧の諸大名を監視する役割です。
6 関ヶ原で働きのあった諸将への加増2
豊臣恩顧の諸大名うち加増移封された大名は、元は、
主に駿河・遠江・三河・尾張と元々は家康さまが
少しずつ育てていった東海道エリアに居城を
構えていた大名衆でした。
これらの大名が西国に移封されて、
空いた東海道エリアには徳川家臣団が
入ることになりました❗️☺️
豊臣政権下では、徳川家臣団のうち
有力な家臣は、豊臣家直臣扱いされていました。
たとえば家康さま関東移封時の、本多忠勝さま、
榊原康政さま、井伊直政さま、などは
家康さまが徳川領国内である程度大きな土地の
統治を任せた、という面と並行して、
豊臣政権下での国持ち大名という扱いでもありました。
家康さまはそこに目をつけました😉🤚
徳川家臣団も豊臣政権の家臣であり
国持ち大名なのだから、関ヶ原で功績があれば
加増も加増移封もできるというスジが通ります。
その考え方に基づき、家康さまは徳川家臣団を
北東は陸奥国岩城平(福島県いわき市)から
山城国(京都府南部)近くに及ぶエリアを
実質徳川家領国としました❗️
これは賢いやり方です❗️❗️
そして、
畿内から中山道に向かう時の要所、彦根に
#井伊直政 さまを加増移封、
畿内から東海道に向かう時の要所、桑名に
#本多忠勝 さまを移封、
畿内から北陸道に向かう時の要所、越前に
#結城秀康 さまを加増移封しました。
この3地点はいずれも政治・軍事上の要衝、
家康さまはそこに家臣団宿老か
優秀な一門衆を置きました☺️
7 徳川政権に向けて周囲を整える家康さま
家康さま・秀忠さまはお二方とも
豊臣政権下では、公に使う名前、つまり
書面などに書く差出人名には、家康さまなら
豊臣家康あるいは羽柴家康、と表記していました。
あるいは、羽柴豊臣朝臣家康、という表記も
あったのかも。
それを、1600年・慶長5年の年末くらいまでには
家康さまなら、源朝臣家康や徳川源朝臣家康など表記の
署名となりました❗️
また、1600年・慶長5年12月には、
家康さまは朝廷に取り計らい、
#羽柴秀次 さま亡き後に浮いていた関白職を
#九条兼孝 さまに任官させることで
関白職を本来の摂関家の家職に戻しました。
さらに家康さまは、1601年・慶長6年3月
天下統治の政庁を伏見城と定め直し、
大坂から伏見へ移動。
こうすることで家康さまは
摂津大坂城=羽柴家の居城に過ぎない
山城伏見城=政庁であり、執政家康さまのご管轄
と豊臣家から政治を分離していることを
内外にはっきりと示しました❗️
8 征夷大将軍任官
このようにできることを地味に少しずつ
徳川政権に近づけておいた上で
家康さまは1603年・慶長8年2月12日
#征夷大将軍 に任官されました❗️
実はこのころの征夷大将軍は
室町将軍が散々、価値を下げておいてくれたおかげで
家康さまは世間的にそんなには角が立つこともなく
任官できたようです😉🤚
同時に家康さまは
#従一位右大臣
#源氏長者
#淳和奨学両院別当
になりました❗️
室町将軍によって価値が下がっていた
征夷大将軍職を任官されたそのあと、
かつて幕府を開いた、源頼朝さま・足利尊氏さまに
継ぐ幕藩政権を樹立することを明確にしていく
家康さまでした❗️
そして家康さまが実力で征夷大将軍の
価値を再び高めていくのでしたっ❗️❗️
9 次回
征夷大将軍になり、形式的には
江戸幕府開幕にはなったものの、
家康さまは伏見城常駐💦💦
また羽柴家の淀の方や家臣は、
豊臣政権下における執政役が家康さま、という
考え方を変えず、いずれは秀頼さまに政権は戻る❗️
と思っているーー💦💦
家康さま❗️
徳川政権樹立をどやって示すのかー❓❓
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