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徳川家康さま☘️をたどる#61☘️関ヶ原❗️

初筆 2023年 11月 24日 / 加筆修正 未
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無料で聞ける#徳川家康さまをたどる 61
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1 コンセプト

#徳川家康 さまはちょっと気の利く
フツーの人やってんやと仮定し
#家康 やその周囲の方々が
こんときはこー
あんときはあー
思ったんちゃうやろか、と、
いちおー書物や文献も引きつつも、
勝手に思いを巡らす
家康さまファンの思いを皆さまに届けます。
参考文献(一次資料)
#三河物語 / #大久保彦左衛門忠教 さま著
# 信長公記 / #太田牛一 さま著

2 前回からのつなぎ

前回は以下を話しました❗️

  • 1600年・慶長5年7月 #家康 さま率いる軍勢が上杉討伐のために会津に向かったころ、 #石田三成 さまは近江佐和山城にて挙兵、大阪城を占拠した。いわゆる西軍の軍勢を集め、 #鳥居元忠 さま留守居の伏見城を陥とした。

  •  #上杉景勝 さまと石田三成さまは家康さまを挟み討ちにするため示し合わしていたのかも。また家康さまは推測済みで乗ったのかも☺️

  • 家康さまは小山評定にて豊臣恩顧の武断派諸将を味方につけいわゆる東軍を結成❗️三成さま、上方仕置きのため西べ取って返す。

  • 美濃岐阜城は東軍によって陥落❗️早すぎる展開に家康さま慌てて江戸を出立❗️💦

⬇️前回はこちら❗️

3 関ヶ原前夜、家康さま美濃赤坂にご到着

1600年・慶長5年9月1日、家康さまは江戸を発ち、
西べ向かいました。
一方、石田三成さまはすでに
#宇喜多秀家 さま #小西行長 さま #島津義弘 さまらと
美濃大垣城ならお入りになってました。

家康さまは、 #真田昌幸 さまを臣従させるため
中山道を行かせた #徳川秀忠 さまに、
真田討伐を中止し西上するよう、書状を出しました。
それを見た秀忠さま率いる徳川本軍は西は急ぎますが
結果、関ヶ原の戦、本戦に間に合いませんでした。

秀忠さまは、真田昌幸さまの策にはまり
ムダに時間を浪費し、また、悪天候が重なり
道なき道に近い中山道で立ち往生してしまったのです💦

1600年・慶長5年9月14日、家康さまは
美濃赤坂に到着します。
美濃赤坂とは美濃大垣城から西北に6kmほどの
小高い山のある場所で大垣市内です。
到着するやいなや、家康さまは、
西軍の籠る大垣城を無視し、
大垣城の西軍から見ると
三成さま居城の近江佐和山城へ向かうように
見えるよう、西に向かって進軍を始めました。

その動きを知った三成さま率いる西軍は
大垣城の外曲輪を焼き払い大垣城を出立、
関ヶ原へ向かいました。

4 東軍・西軍の待っていたこと

西軍を率いる三成さまは、大阪城から #毛利輝元 さまが
#豊臣秀頼 さまを総大将として大垣城まで
大軍勢を引き連れてやってくるのを待っていました。
秀頼さまが戦場に姿を現したならば、
東軍に与する豊臣恩顧の武断派諸将も
心が揺れ動き、戦における動きも
鈍ってくるかも知れません。

東軍の豊臣恩顧大名は
秀頼さまに弓を引いているのではなくて、
三成さまを成敗するつもりなのです。

待っていた、というのは、家康さまも同じく
総勢3万人を越える、 #徳川秀忠 さま率いる
徳川本軍を待っていました。
周囲からは豊臣政権のリーダーと見られている
家康さまですが、家康さまの本当の目論見は、
この石田三成成敗を通して政敵を一斉に駆逐し、
より家康さまが天下を動かせるようにするため、
そして、徳川政権樹立に向かうための戦、
そういうつもりなのです。

だから、軍勢のほとんどが、
豊臣恩顧の諸将で構成されている東軍ではなくて、
徳川本軍もキッチリ戦に参加させたいのです。
そうすることで戦後の家康さまの発言権が
さらにあがります。

5 家康さま、別のプランの勝機を見る

1600年・慶長5年9月14日、家康さまは
到着早々の美濃赤坂の軍議にて、
秀忠さま率いる徳川本軍の到着を見限り、
戦を野戦に持ち込む計画を示しました。

家康さまに1ヶ月ほど先駆けて尾張〜美濃にて
緒戦を制してきた豊臣恩顧の猛将たちは
イケイケムード、
家康さまは徳川本軍が遅延な状況を、
徳川本軍などなくても今ここにいる諸将がいれば
この戦で勝ちは取れる❗️という勢いのある
発令で、諸将を鼓舞し、上昇気分のまま、
作戦行動につけるようにしたのです。

これて、徳川本軍がいないことは、
東軍諸将にとっては取るに足らぬこととなりました。

また、到着早々、野戦に持ち込むことで
秀頼さまが戦場に到着する前に
決戦できる、ということも、家康さまは
考えたと思います。

6 受ける三成さまのプラン

三成さまは、東軍が大垣城を無視し、
近江佐和山城に向かう動きを見せたので、
大垣城を出て、関ヶ原に向かいました。

秀頼さまが総大将として、大垣に来ることを
待っていた三成さまはそのプランを壊されました。
東軍の進軍を止めるために、三成さまは、
東軍を追い越し、関ヶ原の西側にて
東軍進軍を堰き止める布陣を敷きました。

三成さまには頭脳明晰なお方、
野戦になったならばこうする、というプランも
スグにお考えになれる方です。
西軍と向き合い対峙した東軍ですが、
その背後を突けるように西軍の別働隊が
配備されました。 #吉川広家 隊です。
三成さまは家康さまを前後から挟み討ちにする
作戦を立てたのです。

そして、1600年・慶長5年9月15日、
早朝から関ヶ原の戦の火蓋は切って落とされました。

7 戦闘時間帯諸説

関ヶ原の戦は開戦から終戦まで
1日で終わったことが広く知られています。
かつては午前8時か午前10時くらいから始まり、
午後4時くらいに終わったと言われていました。

それはこの決戦の勝敗を決めた
#小早川秀秋 さまの、西軍から東軍への
寝返りが開戦後数時間経ってであったことを
考慮して午後4時にくらいに終わったという
考察がなされていました。

しかし、近年では、この戦の顛末を
記した一時史料が発掘されていて、
小早川秀秋さまは開戦後スグに
西軍から東軍に寝返ったという記録があり、
終戦時刻も大きく見直されています。

また、脇坂安治さま、小川祐忠さま、の
西軍から東軍への寝返りも、小早川秀秋さまの
寝返りと同時だったといくことがわかっています。

そのような最近の資料発掘を受けての考察では、
関ヶ原の戦は開戦後2時間程度で
西軍は総崩れになった、と考えられています。

石田三成さま、宇喜多秀家さま、小西行長さまらが、
敗勢の中、逃亡、大谷吉継さまは自陣壊滅でご自害
なさいました。

家康さまは、秀秋さまの功績をたたえ、
以後、嫡男の秀忠さまと同様に扱うという
書状を表しましたが、西軍から寝返った秀秋さまは
こののち、卑怯な行いを世間から嘲けられました💦


8 家康さま大坂城入城


関ヶ原の戦を制した家康さまは
合戦翌日の、1600年・慶長5年9月16日に
石田三成さま居城だった近江佐和山城を陥とし、
9月20日には近江大津城へ進軍、
このころに関ヶ原の戦に遅刻した🤣💦
秀忠さまと徳川本軍はやっと家康さまに
追いつきました💦💦

怒りすぎて、秀忠さまに面会さえする気のない
家康さまは、 #榊原康政 さまの取りなしで
ようやく、秀忠さまは家康さまに謝罪できた
と聞き及びます💦

大坂に到着した東軍より、
福島正則さまと黒田長政さま、また、
徳川家代表として、井伊直政さま・本多忠勝さまが
西軍総大将として大坂城西の丸にいた
#毛利輝元 さまの退出交渉を成功させ
輝元さまは大坂城西の丸を明け渡し。

家康さまは9月27日に大坂城西の丸に入り、
逆臣を征伐した勝者として、豊臣秀頼さまに
拝謁しました☺️🤚
ここに、1600年・慶長5年7月から表面化した
反徳川勢力による蜂起、中央政争が解決されました。

9 関ヶ原合戦の意義

関ヶ原の戦は、秀吉さまが亡き後、
豊臣政権内の政務実権をめぐっての
豊臣政権内の政争であり、決して
家康さまが豊臣政権を倒すために起こした
戦ではありません、表向きは。

そして、家康さまはこの政争の象徴的な戦である
関ヶ原の戦に勝利し、中央の政情に安定をもたらし、
執政官としての立場をさらに強固なものとし、
それはとりも直さず、家康さま=天下人、という
認識を内外に強く示しました☺️

また、論功行賞面、つまり戦の領土収支を語るとき、
上杉征伐だけの場合と、関ヶ原の戦で、
多くの武将が収める土地を接収し、
戦で大きく働いた武将への見返り・褒美を
再分配できることになり、
家康さまの軍事能力・政治能力・経済収拾力も
さらに評価が高まりました。

そして、関ヶ原の裏で起こっていた
局地戦であり、言い換えると、
大名同士の領土の奪い合い、も
家康さまの威光のため、収束していきました。

それは、家康さまは豊臣政権の
執政という観点から見ると、
天下一統を秀吉さま以来、久しぶりに成し遂げ、
惣無事令により私戦の禁止も定着しました。
すなわち、豊臣政権のトップとして家康さまは
日本国内の平和を成し遂げたのでした☺️

つまり関ヶ原の戦における
家康さま率いる豊臣政権軍の勝利は
こののち家康さまが征夷大将軍に任官されるための
実力面でのバックボーンとなったのです❗️

しかし、家康さま、この時点ではまだ
さて、これからどうしたものだろうか、と
日々、思いを巡らせていたんだと思います😉🤚

9 次回

関ヶ原後、大坂城にて政務に携わる
家康さまはやることだらけ❗️
豊臣政権の執政官筆頭として
関ヶ原の戦後処理をこなす日々。

しかしお立場はあくまで豊臣政権の執政官。
家康さまどのようにして江戸幕府を樹立するのかっ❓


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