ソーシャル・ディスタンシング時代と呼応する「距離の音楽」の実践——中川裕貴、インタビュー
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ソーシャル・ディスタンシング時代と呼応する「距離の音楽」の実践——中川裕貴、インタビュー

 京都を拠点に活動するチェロ奏者・中川裕貴による新作コンサート『アウト、セーフ、フレーム』が、7月31日から8月2日にかけてロームシアター京都・サウスホールで開催される。未曾有のパンデミックを受けて、当初の予定よりも広い会場へと開催場所を変更し、感染拡大を防ぐための措置を講じたうえでコンサートの形式を拡張することに挑むという。人々が密集することによって空気の振動を分かち合うという、従来の一般的なライヴやコンサートの形式がそのままでは成立し難い状況となったいま、フィジカルな空間でイベントを開催するにあたっては、人々が接触することの問題と否応なく向き合わざるを得ない。すなわち音楽の場においてどのように「距離」を確保することができるのか。だが中川はソーシャル・ディスタンシングが叫ばれるようになる以前から、音楽に対して「距離」を取ることについて考え続けてきたという。

 昨年2月に京都芸術センターを舞台に開催された『ここでひくことについて』で、中川は「演奏行為」をテーマに、まるで奇術師のように観客の視覚と聴覚を撹乱し、あるいはパフォーマンスと演出によってコンサートという形式の制度性を明らかにし、さらには受け手の聴取体験の自由と制約を同時多発的な出来事を通じて提示した。そこでは音楽が音によって立ち現れるばかりでなく、音を取り巻く音ならざる要素によってもまた音楽と言うべき体験が成立していたのだった。それは作り手と作品と受け手のそれぞれのあいだにある「距離」を見出すことによって、通常意識されることのない音楽にまつわる関係性を再構築する試みだったと言うこともできる。それはまた、独自の演奏法を開拓することでチェロという楽器の可能性を拡張し、即興演奏家としてさまざまなセッションをこなす一方、劇団「烏丸ストロークロック」の舞台音楽にも携わってきた、演奏と演出の両分野の経験に根差した彼ならではの実践だったとも言えるだろう。

 『アウト、セーフ、フレーム』では、こうした「距離の音楽」がさまざまなレベルで展開される。たとえば「声」という人間にとって根源的に思える響きをチェロから引き出し、実際の人間による発声や聴覚研究に関するテキストと組み合わせることによって、「声」の直接的な現前性に揺さぶりをかけること。あるいは美術家の白石晃一に協力を仰いで廃物と化したチェロを自動演奏機械へと改造し、あたかも自らの分身のような楽器とのセッションを通じて、演奏家として代替不可能なはずの個性を複数化してしまうこと。さらには音響作家の荒木優光とコラボレートし、コンサートをステージから客席へと作品を届けるための一方通行的な場とするのではなく、むしろこうした関係性が宙吊りとなるような音の空間的なデザインへと向かうこと。接触の不安が社会を覆っている状況下において、こうしたさまざまな「距離」の取り方を経験することは、音楽におけるソーシャル・ディスタンシングの在り方を根本的に問い直す契機にもなるだろう。少なくともそこに、パンデミック以前から探求されてきた「距離」に対する批評的な眼差しが潜んでいることは疑いない。(取材・文=細田成嗣)

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■「距離の音楽」という実践

—— 昨年京都芸術センターで開催した『ここでひくことについて』では、どのような成果を得たと感じていますか?

中川 『ここでひくことについて』は「演奏行為」をテーマに据えて企画したイベントでした。演奏行為というのは、端的に音楽を現実化することを意味するものだと僕は考えています。その意味では「音楽を現実化する」ということのありようを、さまざまな角度から提示することができたと思います。ただ、いま振り返ってみると「演奏行為は演奏行為である」というある意味では同語反復的な状態に陥ってしまったなとも感じています。なので今回の『アウト、セーフ、フレーム』では、演奏行為の先にあるもの、たとえば音から生まれるイメージであったり、何かが生成し、また別の何かに変化することだったりを探求してみようと考えています。

—— 『ここでひくことについて』を実施して一番印象に残っていることは何でしょうか?

中川 ものすごいスピードでやって、気づいたら終わっていたというのが正直なところです(笑)。強いて言うなら、特に大きなトラブルもなく京都芸術センターという場所で3日間上演できたことが本当に良かったなと思っています。どんなイベントでもそうですが、演奏したものが自分の前に現れて、それをお客さんが聴くという時間が持てることは、とても刺激的な経験です。完成した作品をただ提供するのでも、すべての解釈を受け手に委ねてしまうのでもなく、作り手と受け手のあいだにあるような作品を生み出すことが理想ですね。

—— イベントを通じて見えてきた反省点や課題はありましたか?

中川 『ここでひくことについて』ではA、B、Cの3つのプログラムを実施したんですが、Bで出演した「中川裕貴、バンド」という形態でできることをやり尽くしてしまったなと感じたことですね。「、バンド」はパフォーマンスによって自己言及を執拗におこなうみたいなスタイルで、音楽に対して批評的な「距離」を取ることをずっと試みてきたんですが、少し語り過ぎてしまったというか。その結果、この先「、バンド」でどんな表現ができるのかわからなくなってしまった。それは集大成みたいな気持ちで挑んだということでもあるんですけどね。今回の『アウト、セーフ、フレーム』では、また別のやり方で音楽から「距離」を取りつつ「、バンド」あるいは「音楽の周りの集団」の可能性を開いていければと考えています。

—— 音楽に対して批評的な「距離」を取る際、対象となるような音楽は中川さんのなかでどのように定義されているのでしょうか?

中川 「音楽とは何か?」という話になると泥沼に陥るので、「音楽から距離を取るとはどういうことか?」という問いに置き換えてお答えすると、それはまずは抽象的であることだと思っているんですね。これは造形作家の岡﨑乾二郎さんから影響を受けているところもあるんですが、僕が「音楽から距離を取る」あるいは「距離の音楽」と言うとき、それは音楽を「直接的な関係ではない事象」と捉えて表現に取り組むということです。たとえば音階やコード進行を駆使して音楽を作ると、一つの効能として受け手の感情に直接的に訴えかけるような叙情性が生まれますよね。けれどもそうした効能を第一義的な目的にはせず、むしろそのような直接性に抗うように、音色や音像から生まれる意味作用を駆使して表現に取り組んでいます。たとえばチェロの演奏音が人間の声や鳥や犬の鳴き声のようになるといったふうに。通常の音楽に備わっている直接性から距離を取って抽象的な表現に向かうことが、僕にとっての「距離の音楽」の一つのかたちです。

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—— たとえば民族音楽学者のジョン・ブラッキングは音楽を「人間によって組織づけられた音響」と定義しました。「音楽とは可聴化された時間である」と定義している作曲家もいます。そうした既存の音楽の定義に対してはどのように思いますか?

中川 僕はあまり音楽の定義にはこだわらないようにしています。いろいろな音楽家や理論家の考えを知ることは面白いですけど、定義した途端に当て嵌らなくなってしまう音楽もありますし、なかなか答えを出すのは難しいですよね。正直に言えば、僕は音楽が何なのかいまだによくわからないんです。自分の表現も果たして音楽なのかどうかわからない。むしろ自分の表現が音楽と言われると違和感を覚えることもありますし、音楽ができていないと感じることも多々あります。ただ、じゃあ僕が表現として何をやっているのかと言うと「人々に音楽と呼ばれている何だかよくわからないものを、演奏行為によって現実化してしまうこと」というふうには言えるかもしれない。その先はそれぞれの人が決めることなのかなと思っています。なので音楽の定義については、僕はつねにそこには立ち入らないようにしていて、遠くからそれを眺めながら、パフォーマンスの場でそれを召喚する。自分が演奏行為をおこなうことによって音楽なるものを呼び出しているという感じです。

—— 「演奏行為によって音楽なるものを召喚する」というのは非常に演劇的な試みであるようにも思うのですが、中川さんの表現は音楽というよりも演劇とカテゴライズしたほうが近いのでしょうか?

中川 演劇にもいろいろなスタイルがあるので、あくまでも僕が知っている範囲での演劇との比較になりますけど、いわゆる台詞や物語がないという意味では僕が取り組んでいることは演劇ではないと思っています。ただ、演劇と音楽に明確な境界線が引けるとも思っていないんですね。そこは地続きになっていて、音楽が演劇的になることもあれば、演劇が音楽的になることもある。たとえばジョン・ケージの「4分33秒」は、音楽における行為それ自体を取り出した極北の試みとも言えるわけで、そうすると音楽でありながら演劇の方へと向かっていくことになります。ケージ自身も著書『サイレンス』のなかで「これからわれわれはどこへ向かうのだろう。演劇の方へ」と書いていましたが、そういうふうに方角を指し示すことはできると思っています。演劇の方へ向かったり、あるいは音楽の方へ向かったり、そうやって演劇と音楽を行きつ戻りつしているところに僕が取り組んでいる表現もあるというか。そもそも「演奏」という言葉自体が演劇と音楽のあいだを彷彿させるところがありますよね。なのでそういう分かち難いもののあいだにあるものとして捉えていますね。

—— 分かち難いものである一方、音楽の現場と演劇の現場では客層が大きく異なりますよね。つまり人々が異なるものを求めていると言えると思うのですが、両方の現場で活躍されている中川さんとしては、その違いはどのようなところにあると思いますか?

中川 率直に言って演劇を観に来るお客さんは音だけを聴きに来ているわけではないですよね。音楽があり照明があり美術があり俳優の演技があり、そうしたいろいろなものが混ざり合って統合されたものを観に来ていると感じます。それに対して音楽のライヴハウスでは、まずは音を聴くことが前提としてあります。そのうえで演劇の現場に比べるともっと享楽的というか、飲み物を飲んだり身体を揺さぶったりして、作品を鑑賞するというよりも体験を享受しに来るという側面がある。そういう違いは現場レベルではあると思いますね。

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■新作公演『アウト、セーフ、フレーム』について

—— 今回の『アウト、セーフ、フレーム』というイベント・タイトルにはどういった意味が込められているのでしょうか?

中川 音の周りで「セーフ」とされることは何なのか、どこまでいったら「アウト」とされてしまうのか。そこには判断をするための枠組み=フレームの存在が浮かび上がってきます。「フレーム」という言葉は映画的な意味を念頭に置いています。僕は映画音楽に最近ハマっていて、エンニオ・モリコーネの1970~80年代のサントラをずっと聴いていたタイミングで訃報が飛び込んできて驚いたんですが……ともあれ、映画って「フレーム」を基本的な単位として構成されていますよね。これは昨年末に刊行された映画批評家の赤坂大輔さんによる著書『フレームの外へ』を読んで受けた影響もあるのですが、「見える/見えなくなる」「聴こえる/聴こえなくなる」「やって来る/去っていく」「意識の内部/意識の外部」といった、内と外を区画する枠組みとしてのさまざまな「フレーム」について表現を通して考えてみたい。なんだか高尚に聞こえるかもしれませんが、一方で「アウト、セーフ」というフレーズには野球拳を彷彿させる非常に俗っぽい響きもあって、そうした両義的な意味合いも含めてこのタイトルにしました。

—— さまざまな「フレーム」を設定することによって、枠組みの内(セーフ)と外(アウト)を提示することが、今回のイベント全体を通じたテーマということでしょうか?

中川 そうですね。それともう一つのテーマとして「再生」ということを考えています。これは「もう一度何かになろうとすること」と言い換えることもできるかもしれません。たとえば今回は壊れたチェロを改造して自動演奏させる予定です。そのチェロは僕が以前使用していたものなんですが、もと通りに修復するのではなく、何か別のやり方で再び機能を取り戻すというか、楽器に外科手術を施すことで以前とは別の状態で演奏の場に呼び戻す。それを受けて僕自身の演奏行為もまた変容して別の何かになっていく……ということを考えています。他にも俳優によるいびつな日本語の再生とその反転、チェロの演奏音が人間の声になろうとする、あるいは演奏という行為が音楽と呼ばれるものになろうとする、といったことにも「再び何かになる」というテーマが関わっていますし、ある楽曲がコンテクストを外れて意図せざる受け手に届いてしまうということも、その誤配のうちに「再生」の瞬間が訪れると言えるはずです。そうしたテーマに関わる表現に取り組もうと思っています。そしてそのすべてにおいて「音像」をいかに構築するか、ということが重要な課題としてあるなと思っています。

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—— 「音像」を構築するというのは、具体的にはどういうことでしょうか?

中川 今回は音響作家の荒木優光さんとコラボレートして、ロームシアター京都のサウスホールというコンサートホール然とした会場で、通常のコンサート形式のイベントをおこなうと同時に、いかにそこから遠いものを「音像」によって生み出すことができるかを考えています。より具体的には「サウスホールそのものを再生する」ということをテーマに、無観客の状態であらかじめ会場を複数のマイクで空間ごと録音し、それを上演時に再生すること(つまり二重のサウスホールの音場が現れる)や、通路を移動する巨大なスピーカーの存在など、お客さんの視聴環境を踏まえたサウンドデザインを検討しています。ただ単に変な方向から音が出てくるとか、一般的な意味でのサラウンドとは異なるかたちで、音を空間内でどう配置/構成していくのかを考えています。通常のコンサート形式にこれらの「音像」が多層的に重なって進んでいくことが、今回の公演の大きな特徴になると思います。

—— チェロの自動演奏楽器は、中川さんご自身が改造を手がけているのでしょうか?

中川 いや、技術的な部分は美術家の白石晃一さんに協力していただきました。白石さんとはもともと2017年に美術家の故・國府理さんの『水中エンジン』の再制作プロジェクトではじめてお会いしたんですが、昨年12月にYCAM(山口情報芸術センター)で開催されたミュージシャンの日野浩志郎さんによる『GEIST』という公演に参加したときに久しぶりに再会して。そのときに白石さんが日野さんの自動演奏装置を制作していたんですね。それで「これはすごい!」と思って、今回のイベントでコラボレーションできないか打診したら引き受けていただけたんです。壊れたチェロにさまざまな部品を装着して、プログラムを走らせて何らかのトリガーで自動演奏されるというものになっているんですが、僕の演奏方法と似たようなことができるように白石さんが調整しているので、僕としては自分自身と対話するというような感触があります。

—— それはまるで自分の「亡霊」とセッションするような感じで面白そうですね。

中川 そうですね。ただ、やっぱり自動演奏楽器が観れるとか、特殊なサウンドデザインのスペクタクルがあるとか、そういったこと自体は僕にとっては表現の本質ではないんですよね。キャッチコピーとしてそうしたポイントを強調した方が人目を引くかもしれないんですけど、自動演奏楽器もサウンドデザインもあくまでも手段であって目的ではないんです。それらを方法として用いたことで結果的に生まれる作品こそが重要なものだと思っていて。こういうことを言うとわかりにくいと感じる方もいらっしゃるかもしれないんですが、別に難解なことをしようとしているわけでもないんです。むしろ誰にでも開かれた作品であるとも思っていて。いまは移動すること自体にどうしても感染のリスクが発生してしまうので余計に難しいのですが、会場に足を運んで時間をともにしてもらえれば、たとえ実験音楽や前衛音楽の文脈をまったく知らなくても何かしら呼応していただける部分があるのではないかなと思います。

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■ポストパンデミック時代のコンサートをめぐって

—— いまコンサートを開催することには、作品の価値を提示することに加えて、フィジカルな空間でイベントを開催できる可能性をどのように提示するか、という意味も否応なく含まれてくると思います。その意味で『アウト、セーフ、フレーム』には、ポストパンデミック時代のコンサート形式のモデルケースを作ろうという目論見もあるのでしょうか?

中川 もちろんその辺の事情を意識していないわけではありません。今回のイベントは国や音楽業界のガイドラインに沿いつつ、感染拡大を防止するための独自の措置を講じたうえで開催します。とはいえ、僕の場合はなかなかコンサートの新しい方法論のモデルケースにはならないんじゃないかと思うんです。いわゆるスタンダードな音楽のコンサートではないですし、そもそも肌を寄せ合って盛り上がるような密集するタイプの音楽でもないんですね。先ほど「距離の音楽」と言いましたが、僕はこれまでの活動で、音楽をはじめとしたさまざまなものに対する「距離」をつねに考えてきたんです。たとえば音に対してどのように「距離」を取ることができるのか、といったことを表現として提示し続けてきました。その意味ではコロナ禍以前からディスタンスの問題と向き合ってきたとも言えますし、たとえ今回のイベントがフォーマットとしてモデルケースにはならなかったとしても、「距離」を確保して音楽を体験することについて問いかけられることがあるとは思っています。

—— 『アウト、セーフ、フレーム』は昨年の時点ですでに企画が進行していたと思うのですが、コロナ禍を受けて内容を変更したところはありますか?

中川 もともとはロームシアター京都のノースホールという、キャパ200人の比較的小規模なスペースで開催する予定でした。内容もホール内で同時多発的にいろんなことが発生して、お客さんが自由に歩き回りながら見たり聞いたりするという、ある意味ではインスタレーション的なイベントを考えていました。けれどもコロナ禍を受けて、狭い空間に人が密集することを避けるために、キャパ700人のサウスホールという広い空間に変更したんですね。サウスホールは同じくロームシアター京都のなかにあるんですが、ノースホールに比べてよりコンサートホール然としていて、ステージ上の演奏を客席で聴くための環境がしっかりと整えられている。なのでどうしたら感染拡大を防止しつつコンサートという形式を拡張できるのか、いま試行錯誤しているところです。なお今回のサウスホールでの公演については、各回100名以内の収容人数に制限し、鑑賞に際して十分な距離を設けて上演をおこなう予定です。

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—— 配信コンサートに切り替えようというプランはありましたか?

中川 いや、ありませんでしたね。もちろん無観客ライヴにすると採算が取れないという経済的な問題もあるんですが、それ以前に僕自身があまり配信コンサートを見ていなくて。もしかしたら今回のコンサートでも一部分だけ配信をするかもしれないんですけど、それはあくまでもある一つの視点が配信として設置されているというだけで、実際に現場で起きる出来事を体験することとは質が違うものだと思います。

—— そもそも配信コンサートにそこまで興味を抱いていなかったと。

中川 そうですね。やっぱり人間って制限されないと作品を鑑賞できない生き物だと思うんです。少なくとも僕はそうなんです。もちろん必ずしもじっくりと鑑賞しなくてもよい作品もありますし、どんな状況でも集中できるという人もいるとは思いますけど、僕の活動に関しては、自宅で自由な状態で見たり聞いたりしてもらうことを想定していないというか。劇場やライヴハウスのようなフィジカルな空間で、ある種の制約を受けた上で鑑賞するという経験を含めて作品制作をおこなっているんですよね。

—— 配信コンサートは目的ではなく、あくまでもフィジカルな空間を共有できない状況下で音楽を延命させるための手段だと捉えている人もいるとは思います。そうでもしない限り、経済的に逼迫して立ち行かなくなってしまうというミュージシャンやスペース運営者もいますよね。

中川 もちろん僕も音楽や文化芸術が消えてはならないと思っています。少なくとも消えてしまわないような行動をしたいとは思っていて、それでお世話になっている京都UrBANGUILDを支援するプロジェクトにも参加しています。ただ、これは語弊があるかもしれませんが、音楽や文化芸術は必ずしも経済として成立しなければならないというわけではないと僕は思っているんですね。言うまでもなく音楽を経済活動として成立させないと生活していけないという人もいますし、僕自身は音楽だけで生計を立てているわけではないので、そういった専業音楽家からしたらある意味では誠実な態度ではないと思われるのかもしれない。けれどもやっぱり表現の本質は経済活動ではないと思うんです。少なくとも資本主義社会における経済の論理だけで文化芸術の行方が左右されてしまうことのないよう、この国はもう少し文化芸術を大事にするべきだと思います。経済を動かしている大きなものへの配慮/感覚しか持っていないというか、その外部への想像力がだいぶ欠けている感じがします。

—— 衣食住のような生活必需品ではない音楽が、それでも人間にとってなくてはならないとしたら、それはなぜだと思いますか?

中川 音楽を聴くという行為は「ここではないどこか」へ行くことができる方法だと思うんです。目の前にどんな現実が広がっていたとしても、その現実とは異なる風景に出会うことができるような入り口を用意してくれる。そうした経験をするための入り口は、たとえ名前もつけられないような小さな表現であったとしても、確保しておかなければならないと思います。

—— コロナ禍は創造的な活動それ自体に悪い影響を及ぼしていると思いますか?

中川 僕個人のことで言えば、コロナ禍が原因で創作のモチベーションを削がれるようなことは全然なかったですね。そもそも社会状況が表現を止める理由になるとは思わないんです。表現には世の中とは隔絶されているところがあると思っているので。もちろん音楽は社会と何かしら関係しているし少なからず影響を受けてはいるんですけど、表現の形式として外部から侵略されることのない部分は作り手として絶対に持っておくべきだと僕は思うんですね。外的な要因によって表現の核が変わってしまう必要はないというか。もちろん社会状況をエネルギーに変えたり、表現のテーマに据えたりする人もいるとは思いますけど、少なくとも僕はコロナ禍によって創造性の核が変化することはありませんでした。ただ、創作したものを人前で発表するということになると、いろいろと解決しなければならない問題はありますが。安全を確保するためには音楽よりも人命や金銭を優先しなければならないという世の中の流れもありますよね。けれどもそうした状況だからこそ、自分の表現の核を社会の変化とは関係のないところに置いておかなければならないと強く感じています。

中川裕貴 Yuki Nakagawa
1986年生まれ。演奏と演出をチェロ/電気/適当な録音を使用して行う。演奏行為とそれによって現れる音のあいだに在る「距離」を測ること、また演奏をしながら自身が「そこ/ここ」でどのように存在するかを問うこと(またそれへの頓智)をテーマとする。矛盾した行為(動きながら自分で自分についての距離を測る)が発する音楽への襲来と、音楽からの襲来(応答)について、演奏という行為を通じ考えている。またソロ活動と並行して(中川裕貴)「、バンド」活動や、烏丸ストロークロックを代表とする舞台音楽、その他アーティストとのコラボレーションもいくつか行っている。

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■公演情報

ロームシアター京都×京都芸術センター U35創造支援プログラム”KIPPU”
中川 裕貴「アウト、セーフ、フレーム」

日時:2020年7月31日(金)~ 8月2日(日)
会場:ロームシアター京都 サウスホール
https://rohmtheatrekyoto.jp/event/59027/

出演・スタッフ
作曲/演奏/演出:中川裕貴
出演:中川裕貴、菊池有里子、横山祥子、出村弘美、穐月萌、武内もも(劇団速度)
サウンドデザイン:荒木優光
舞台監督:北方こだち
照明:十河陽平(RYU)
音響:甲田徹
技術協力:白石晃一
宣伝美術:古谷野慶輔
制作:富田明日香、阪本麻紀

チケット料金
一般 3,000円
ユース(25歳以下)2,000円
高校生以下1,000円
12歳以下 無料(要予約)
※ユース、高校生以下は入場時証明書提示
★リピート割
2回目以降のご鑑賞は、各種料金の半額にてご覧いただけます。
※当日受付にてチケット半券をご提示ください。
※以下の予約フォームより各回の前日までご予約も可能です。
※チケット完売の回につきましては、ご利用できませんのであらかじめご了承ください。
https://www.quartet-online.net/ticket/out_safe_frame

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1989年生まれ。ライター/音楽批評。2013年より執筆活動を開始。『ele-king』『JazzTokyo』『Jazz The New Chapter』『ユリイカ』などに寄稿。2018年より「ポスト・インプロヴィゼーションの地平を探る」と題したイベント・シリーズを企画/開催。