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【ダスカロスの教えに学ぶ24】“信仰”について(「真理の言葉」第13章より)

今回は「真理の言葉」13章をテキストに、“信仰” について考えてみる。


“信仰” とは、合理的思考と経験によって培う “確信” である

ダスカロスのいう “信仰”(Faith)は、真摯な目的意識と努力の結果得られる “確信” であり、そのような “信仰” を得るためには “意志の力” ……すなわち、正しく思考”(形態化したマインドを使う力が要る。

確固たる基盤がなければ信仰を持つことはできません。先ずは真理を知ろうとする強い願望意志” がなければ無理なことでしょう。

もし真理への真摯で切なる願望やその目的を追求する意志の力がなければ、どのようにして信仰を持つことができるのでしょうか? 自ら進んで行いたいと思う心、すなわち意志の力は、真理を知ろうとする目的を追求することであり、真理という智恵に向けての努力と働きかけであり、信仰の基盤に不可欠なものなのです。

私たちは鍛錬を積まなくてはなりません。すなわち、常に真理を求めなくてはなりません。これは必須のことです。なぜなら、信仰は知識と経験の結果だからです。ある何かが真実であるということを確信しない限り、私たちはそれを信じることはできません。

例として、もし誰かが私たちのところにやって来て、あることを信じなくてはならないと言ったとしましょう。それを真実だと盲目的に信じることは、あまり賢いこととは言えないでしょう。たとえ彼に私たちを納得させるカリスマ性があり、それを真実として受け入れたとしても、それは偽の真実で、最初の疑いが起きるや否や消散するような基盤のない信仰かもしれません。

ジョシュア(Noel註:キリスト)が「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向って、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」(Noel註:マタイ福音書17章 20節)と言った時に意味した信仰を持ちたいのであれば、私たちにとって必須なことは、合理的思考経験なのです。

では、合理性合理的思考とは何を意味しているのでしょうか? それは私たちがある特定の時間の下で、論理的に真実であると意識的に判断するものなのです。しかし、この合理性は時の試練に耐えることはできません

今から百年前に、前面がガラスで出来ている箱のコードを、壁にある電気コンセントに差し込みスイッチを押すと、何千キロも離れたところで今起きている映像や出来事を見ることができるということを聞いた時、その時代の人は理解できたでしょうか? 彼の時代の合理的思考では、そのことを理解したり信じたりすることはできません。ある時点における人の合理的思考はその人がそれまでに得た経験と知識によるものです

私たち真理の探究者は私たちの時代のいわゆる合理的思考には依存せずまた私たち自身の現在の限られた経験にも依存しませんいかなる真理の先生も自分が知っていることが絶対真理であると言うべきではなくまたすべて知っていると主張するべきでもありませんどんなことを知ろうとする場合でも私たちは経験すなわち自分自身の経験あるいは十分に信頼のおける先生自身が経験したことから学ばなくてはなりません

「真理の言葉」197‐199ページ、一部の太字化はNoelが実施

残念ながら、Noel は山を動かせるほどの “信仰” は得ていない、、、現状は「知っていること」と「知らないこと」、「できること」と「できないこと」を明確にしつつ、思考(5次元的な認知力)の幅を広げる努力をしている段階ってところ (;´Д`A …

で、その際に障害になっているのが、潜在意識 に吹き溜まったネガティブなエレメンタル(人−悪魔エゴイズム)、、、これがもうほんと途切れなく次々と浮上してくる、、、

ダスカロスが「じゅうぶん注意しなさいエゴイズムは光の天使のような顔で現れてくるから」と忠告する通り、エゴイズムはひじょうにずる賢く狡猾だ。

エゴイズムは「わたしはわたしである」と決していわないエゴイズムは「わたしがお前だ」といって騙し、精神と肉体の支配権を奪おうとする。が、エゴイズムには常に痛み虚無感が伴うので、それによって喜び充足感の源である「自己認識」(ほんとうのわたし)でありたい(“なる” のではなく “ある”)……と決意することができる。

訓練によって“信仰”を確たるものにする

未来のサイコセラピストについて発言するとき、私はいつも事故か何か他の理由で肉体が傷ついている人がいる場合を例に挙げます。善きサイコセラピストは、傷をやさしく手でさするか、あるいは手をかざすことも不必要で、単純に傷を観て強靭な願いを生み出し祈るだけで、傷を完治させてしまうでしょう。合理性、あるいは一般大衆の合理的思考では、そのことを受け入れることは出来ないでしょう。

また、科学者であっても同様なのです。なぜなら、彼らは何が起きているか分からず、またそのような癒しに対して科学的な説明が加えられないからです。彼らは エーテル・ダブル が何であるかも知らず、運動エーテル や 創造エーテル や 感覚エーテル についても何であるか知らないからです。関与している力が何であるかについて、また視覚化の力について、彼らにどのように説明することが出来るでしょうか? 彼らは知らないのです。結論として、一般大衆の合理的思考を受け入れることは誤りであり騙されることになります

ある人は、そのような現象を目撃したかもしれません。それらはキリストの時代に目撃されたものです。私たちの教会の多くの聖人たちもまた、このような現象を起こすことができました。現在のキリスト教の信者のどの位の人々が、いわゆる奇跡を信じているのでしょうか? 多くの人々は奇跡を信じていません。奇跡を見たという人々は、詐欺師とか嘘つきと呼ばれます。しかし、それでも奇跡は起きるのです。

そのために、私たちは合理性が信仰の枠組みを作り上げるために不可欠であることを心に留めなくてはなりません。また同時に、一般大衆の合理性を越えていくのも合理的思考であることを認識していなければなりません。一般大衆のいわゆる合理的な人の不完全な思考と、真理の探究者によるもっと合理的でより善い思考との間には違いがあるのです。しかし未来において、新たな経験を得るにつれて、私たちは誰でも合理的思考の方法を改善することができ、その違いをより小さなものにしていくことができるのです。

結論として、私たちは忍耐強くあらねばなりません。なぜなら、私たちはすべてを持っているわけではなく、すべてを知っているわけでもないからです。ですから、支援の手を差し伸べましょう。そしてジョシュア(Noel註:キリスト)の言葉「あなたがたの天の父が完全であられるようにあなたがたも完全なものになりなさい」(Noel註:マタイ福音書5章 48節)をいつも心に留めましょう。

サイコセラピストについては、以下を参考にどうぞ。

 奇跡を起こすレベルの “信仰” は、「永遠のパーソナリティー 」や「自己認識-魂」においては自明であっても、「現在のパーソナリティー」においては疑わしくなるのが一般的……つまり “信仰” とは、「現在のパーソナリティー」を「永遠のパーソナリティー」に融合させてゆくことであり、その “” の途上において「真理の探究者」は、数多くの誘惑を受けることになる。

信仰を持たなくても感覚エーテルや運動エーテル を使って物質を動かしたり、空中浮揚したり、霊と交信するなどの現象は起こせる……が、「真理の探究者」は現象ばかり求めず、現象が起きる仕組みの “理解”と、能力を適切に発揮するための道徳性に基づいた 信仰” を、意図的に養わなくてはいけない。

さて、何を信仰と呼ぶべきなのでしょうか? キリスト山をも動かす信仰について語りました。弟子多くの異なった現象を見せました。彼らが見たものは、死者を蘇らせることや、人里離れた場所で エーテル・バイタリティー を物質化することにより、五つのパンと二匹の魚だけで五千人もの人々に食べ物を与え、さらに残り物で12のバスケットを一杯にしたことでした(Noel註:ヨハネ福音書6章)。弟子たちはこれらを目にして、はっきりと思い知り、また驚嘆しました。

ある夜 ゲッセマネ で、これらがどのようにして起きたのかについて彼らに話しました。彼は エーテルエーテルバイタリティー、そしてそのについて話し、またこの力が私たち一人ひとりの中にあることを話しました。これは、ある女が後ろから彼の服の房に触れ、長年の病による出血が癒された時に、キリストが自分の体から出て行くのを感じた、そのなのです(Noel註:ルカ福音書8章)。弟子たちは多くを聞き学びました。

あるものはキリストに注意深く耳を傾け、またあるものは居眠りをしていました。ヨハナン はこれらすべてを学ぶ必要はありませんでした。彼は大天使であったので、これらすべてを既に知っていたのでした。ヤコブ や フィリポ、そして他の弟子たちは、理解し学ぶために大いに注意を払わなくてはなりませんでしたペトロ はどうだったのでしょうか? 彼は信仰を持っていたのでしょうか? 彼は時々信仰を持ち時には揺らいでいました。そのため、キリストはしばしば彼に信仰を持つように駆り立てていました。

「真理の言葉」202‐203ページ、一部の太字化はNoelが実施

ダスカロスは誰でも訓練すれば、水の上を歩いたり、空中浮揚したり、パンを物質化することができるという。しかし、そのような現象を求めることが真理の探究者の目的ではない

ペトロキリストが湖の上を歩いて近づいて来るのを見て、興奮してキリストに「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」と尋ねました。キリストは考えてペトロに「来なさい」と言いました。ペトロは水の上を歩き、キリストの方へ進みました。彼は突然信仰を失い、沈みかけました。キリストはすぐに手を伸ばし、彼に忠告を与えました(マタイ福音書14章)。なぜ彼に忠告を与えたのでしょうか? もしこれが教えの一部でないとしたら、なぜペトロを叱ったのでしょうか? そして、なぜ「」であるジョシュアは、ペトロに水の上を歩くように言ったのでしょうか?

なぜなら、信仰について述べているからです。信仰の強さは、確かな理由意志の力と相まって、“経験から得られるものなのです。私たちの中にある信仰さらに強めるために、このを使います。私たちにとって、意志の力信仰の力は同じものです。訓練を積んでいくと、あなたにとってこの二つの力が同じものであることに気づく時がきます。

もし私たちが誠実にエクササイズを行い、私たちが教える方法でヒーリングワークを実行する時、私たちは何を得、何を達成できるのかを自分自身に尋ねて下さい。あなたが得るものは、まさにこの信仰であり、その信仰の確かさと堅固さであり、同胞である人類の善性のためにそれを使う意志なのです。

「真理の言葉」203‐204ページ、一部の太字化はNoelが実施

わたし達人間が  や 大天使たち と同様の “権能” を与えられているのは、それを現在のパーソナリティーのエゴイズムに奉仕させるためではなく(そのために使い続ければ力は取り上げられる)、神と同じ完全な存在となって同胞である人類を助けるためなのだ。

わたし達は「悪魔」に対して無力ではない。“正しい思考” で「悪魔」を非活性化するのはもちろん、“思考の物質化” でさえ、“自己意識 の目覚めという条件を満たせば可能となる。

クリスチャンは、ミサや礼拝で「主の祈り」を唱える。

真理に基づいた “祈り” は「天使」(ポジティブなエレメンタル)を活性化し、「悪魔」(ネガティブなエレメンタル)を沈黙させる。

心の中に絶対神、すなわち神聖なる存在を描くことによって、人は大天使たちやロゴスや神ご自身からの助けを得ると同時に、「信じる力の助けを得ることができるようになるのです。このように、人は “祈り” としての「純粋な思考形態」(Noel註:「人−天使」)のエレメンタル自分自身に贈ることによって、はじめて不道徳な悪霊のエレメンタル(Noel註:「人−悪魔」)を自身から追い出すことができるのです。

キリストのたとえ話」45ページ

物質次元に近い振動数の粗いエンティティ、感情、欲望などをの「悪魔」は、5次元の ノエティカルイメージノエティカル・ライト) に キネーシス(移動)すると、宇宙意識に収納されて非活性化する。

これは、ごく初歩的な非物質化のスキルだ。