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【ダスカロスの教えに学ぶ12】マインドを正しく使う(「真理の言葉」第4章より)/【補足】サイコ・ノエティカル体について
マインドを正しく使う
以前、こちらの記事で「マインドとは何か?」について書いた。今回は、「マインド の正しい使い方」について考えてみたい。
あらゆる人々がマインドを使い、考え始めなくてはなりません。「人生とは何か? そして、自分とは誰なのか? 自分たちの周りで、一体何が起きているのか?」と考えなくてはなりません。私たちはマインドを使うことから始めなくてはなりません。そうすれば、少なくとも現象の裏にある “相対的な真理” を学び、理解できるようになるのです。
しかし、このような事が本当にできるようになるのでしょうか? もちろん可能なのですが、ただやろうとしないのです。なぜでしょうか? それは、私たちがもっと他に大切なことがあると考えているからです。しかし、それらは私たちに不安と問題をもたらし苦しめているだけでなく、決して満足をもたらすことのない生き方なのです。私たちがマインドを正しい思考に使うために、何をやるべきでしょうか? 若い人々が成人になる前に、何かを教えなくてはならないのです。
彼らが家庭や社会でただ自動的に物事を受け入れないように、そして同じ失敗を繰り返さないようにするにはどうしたらよいのでしょうか? もしそうしなければ、同じ愚かな生き方を続け、同じような心配や苦しみがもたらされることになり、どうにもならない個人的 エゴイズム が築かれることになります。エゴイズムが何であるかを学ぶ前に、ただ盲目的に自分の感情や欲望に服従することを止めさせなくてはなりません。しかし、なぜ私たちはそれらに従ってしまうのでしょうか? それは何のためでしょうか? このように、誰もがマインドを使うことと、自分たち自身のために “考える” ということの価値を見出せないために、他者のつくった環境の奴隷に成り下がっているのです。
では、何を考えたらよいのでしょうか? 先ずは、私たちが社会における人として誰であるかを考えなくてはなりません。人生から何を期待しているのでしょうか? 考える時に理性を使いましょう。私たちの周りの多くの人々があまり幸せではなく、いろいろな苦しみを抱えていることを知っている以上、あなたの家族や地域社会など、周りの環境からの先例に従わないようにすることが大事です。
子供たちを取り巻く環境は過酷だ、、、誰もがダスカロスのような良い霊性の先生に巡り合えるわけではなく、周囲にいる大人たちはお手本には到底ならない状況にある。そのような環境で、子供たちがマインドを正しく使うことを学ぶのはひじょうに難しい、、、が、物質界を苦しみに満ちたものと決めつけ、人生に何かを期待することを諦めてしまうのはよくない。苦しみには必ずそれを生じさせた「マインドの誤用」という原因がある。それに気づいた大人たちが自ら率先し、良いお手本を示せるようになれば、0が1、1が2、2が4……となって周囲に希望が広がってゆく。
人間は目的を持って、物質界で生きている。
神 は目的のない人生をおくるために、私たちに生命を与えることはありません。少しだけ考えて下さい……多くのマインドの大天使たち、ミカエルやガブリエル、ラファエルやウリエルたちが、私たちの肉体の中で働き続けていることを。彼らは肉体の中の各臓器の維持の仕方をすべて知っています。私たちの生命維持だけでなく、私たちに仕える準備はいつもできているのです。なぜ、これらの大天使たちが私たちのために継続的な重労働に耐えているのかを、自分自身に問うてみてください。
私たちが肉体の中で生きているのは、権利によるものではなく、神の恩寵によるものなのです。ほとんどの人々は、大天使たちにより創造され維持されている肉体の中で生きる価値に答えられていないと思います。このことだけでも、適切に考えることの必要性を気付かさせてくれます。私たちは人生にいつも何かをただ求めるだけではなく、人生もまた私たちに求めているものがあることを考えなくてはなりません。
「人生に何を期待しているのか?」、そして「人生が与えてくれるものは何なのか?」という、2つの質問をじぶん自身に投げかけてみよう……とダスカロスはいう。
1つ目の質問の意義は、人間には幸福や満足を求める資格があると知ることにある。
2つ目の質問の意義は、人生が与えてくれるもの……例えば生まれた国、地域社会、家族、学校教育、人間関係などに対し、じぶんがどのように応じているかを知ることにある。人生が与えてくれる喜びや満足が、永続的とは限らない。そして、じぶんを悩ませる様々な不幸や不満足が、現在のパーソナリティー に潜む エゴイズム(欲望-思考型エレメンタル)を表にあぶり出してくれる。
人生は、最高のパーソナル・トレーナーである。
私たちにとって最も大切なレッスンは、私たちの「現在のパーソナリティー」の言動をチェックする警戒システムのスイッチを常時入れておくことです。このことが、私たちの言動の裏にあるエゴイズムと呼ばれている怪物を見つけ出すことになります。それが、すべての悲惨な境遇の原因であり、すべての罪悪の元凶なのです。ある人は、「そんなことは簡単だよ」と言うかもしれません。もしあなたが、物事に対してより深く観察し決断する訓練ができていて、自分自身のエゴイズムを本当の自己ではないと認識できていれば、おそらく簡単なことと言えるでしょう。しかしながら、パーソナリティーのエゴイズムを自己として考えている限り、それはかなり難しいことです。
エゴイズムは、かなり狡猾で、私たち自身のような仮面を付けて私たち自身に成りきっています。そのため、エゴイズムの本質に気付くためには、かなり継続的で深い思考と、“自己分析” をする意志が必要となり、それで初めて真実を見つけ出せるようになります。このことは、私たちにとって最も大きな成長になります。すなわち、私たちは自分が私たちと考えているものではないことを認識することであり、私たちが単なるパーソナリティーの頑固なエゴイズムではないことを受け入れることです。私たちは本来、物事に対して自ら考え、決断し、マスターすることができる存在なのです。このことに気付き、認識できることは、本当に大きな前進となります。
このように幻想から醒めると、マインドを適切に使えるようになります。そして、マインドを使って、私たちの人生の境遇や物事に関する “相対的な真実” を学び、見つけ出せるようになっていきます。これこそが、あらゆる問題や悲惨な状態や病から救うことができる道なのです。肉体に起きるあらゆる病は、サイキカル体(感情体)から来ます。このことを “心身相関”(サイコソマティック)と言います。これらすべては最初、サイキカル領域に発生します。あらゆる憎しみ、文句、悪い行い、頑固さなどは、肉体への毒となり、一種の “自己処罰” を引き起こすことになります。絶対存在も大天使も、私たちに罰を与えることはありません。大天使たちは私たちの肉体の中で休みなくこれらの病を癒し、傷を治し、骨を修復するために働いてくれています。私たち自身の生活の仕方や考え方や行動の仕方によって、私たちの 三つの体 や私たち自身に害を与えている張本人は私たち自身なのです。私たちが知るべきことは、嫉妬や憎しみや恨みなどの人間の弱さには、すでに罪が含まれているものであり、このことに充分注意を払わなくてはならないということです。
人間には自由意志があり、マインドを 神聖なる法則 に反することにも使えてしまう、、、が、それによって悲惨な境遇にハマり、そこからなかなか抜け出せなくなる、、、というのは、エゴイズムがひじょうに狡猾だからだ。エゴイズムはしばしば「光の天使」のような顔で近づいてきて人間を騙し、それをほんとうのじぶんだと思い込ませてしまう、、、が、ほんとうのじぶんとは、霊-エゴ-存在(Spirit-Ego-Being)であり、自己認識-魂(Self-aware Soul)であって、その事実は「悪魔のようなパーソナリティー」を物質界で表現しているひとたちにおいても同じである。
私たちの周辺にいる悪魔と呼ばれているような人間は、私たちの愛を求めているのであり、恨みや非難や批判ではないのです。キリストも私たちに決して批判しないようにと、述べています。
本質的に人間は、明るい太陽のように愛を放射するハートを持っていて、あらゆる人々の顔を照らすのです。太陽が光をもたらす時、私たちが悪魔と考えているような人たちに光を止め、温かみを拒絶したりするでしょうか? そんなことはありません。このように、私たちは自分たちのハートを、愛を放射する太陽のようにしなくてはなりません。それは誰へもの愛なのです。そして、この愛、すなわち光を、誰もが “道” を探し出すために必要としているのです。
他の人々を罪ある人、犯罪者、泥棒などのいろいろな名前で呼ぶ人々は、概して同種の人間といえます。なぜなら、同種でない人々は、そのように見ないからです。これらすべての人々は非難を求めておらず、愛を求めているのです。
どのようにして指導したらよいのでしょうか? 誰も、子供ですら指導を受け入れないでしょう。世界で最も偉大な心理主義者であったといえるキリストも、人々を指導するようには述べていません。キリストは「あなた方がなすこと、すなわち行動で表しなさい。他の人々はそれを見て、従うであろう」と述べています(Noel註:ヨハネ福音書13章?)。また、このことだけでなく、「あなた方の天なる父を崇めなさい」とつけ加えています。
このように、人々は私たちの指導を求めていません。彼らは変わるように求められることを望んでいません。しかし、彼らは私たちが行っていることを見て、従うようになるのです。
ーーー(中略)ーーー
多くの人が、悪魔にとりつかれてしまったと話しますが、現実には、彼らは自分自身がつくり出したエレメンタルの重圧に苦しんでいるのです。そのような状況に対処すべき方法は、彼らの行動や考え方を変えることです。なぜなら、彼らがつくり出した悪意のあるエレメンタルに最初に攻撃されるのが、それを自らつくり出した本人なのです。
このように、私たちは自分のつくり出したものに対して責任を負うことになります。一瞬一瞬、人々は誤った方法でマインドを使っています。誰でもマインドを使っていますが、しかしそれはしばしば誤った方法で使われているのです。これはマインドのマスターとして正しい思考を使わず、噂話に巻き込まれ頭が混乱してしまい、周りの他人が考えていることに迎合し、さらに話を付け加えてしまうような人たちです。
私たちは、聖なる超素材であるマインドをどのように使っているか、充分に注意しなくてはなりません。なぜなら、私たちはマインドをただ思考としてだけでなく、形態をもったエネルギーとして理解しているからです。それがエレメンタルであり、周りの人々の人生に影響を与えていると同時に、その人自身の人生にも大きな影響を与えているのです。
このように、もし私たちが世界を改善しようとするならば、先ず私たち自身がマインドの使い方を改めなくてはならないのです。
正しさを、分離の次元 で相対的に表現されている善悪などの価値観と同一視してはならない。ほんとうの正しさとは、永遠の存在である自己の内側で働く 神聖なる原理と法則 なのだ。
エクササイズ
「真理の言葉」第4章にあるエクササイズを行ってみよう。
先ず、心地よい深呼吸をして、身体をリラックスさせましょう。あなたが完全にリラックスしているか身体の各部を感じてみましょう。 足から始め、膝、お腹、胸、そして頭をリラックスさせましょう。さあ、あなたは完全にリラックスしています。
次に、あらゆる思考や感覚から、あなた自身をリラックスさせ解放させましょう……自分が誰であるかも忘れてしまいましょう。そして、あなたが頭の中にではなく、身体全体の中にいると感じましょう。あなたの肉体を感じ、あなたがその身体全体の中にいるのです……そして、感情や欲望や思考から解放されています。あなたは今、肉体の中に存在しています……それを感じて下さい。
さてここで、あなた自身に尋ねてみましょう。「私は自分の肉体の中に生きているのでしょうか?」
今のこの瞬間、聖なる大天使たちが、私の肉体の中で働いてくれています……あらゆる血液細胞の中で、あらゆる動脈の中で、あらゆる静脈の中で、あらゆる臓器の中で……あらゆる部分で聖なる大天使たちが私のために働いているのです。自分を神として捉えましょう……それは、私がこの肉体の中で感じ、生きるためなのです。私はこの肉体の中で生きています……私はその中に存在しています……私はこの肉体の中に存在する権利を持っています。「私は肉体を正しい方法で使っていますか?」「私は自分の肉体に本当に愛を与えていますか?」「私は子供を抱きしめますか? キスをしますか? 自分が愛している人を抱き締めますか? そうではなく、叩いたり、蹴ったりしますか?」
私は、この肉体を使って自分自身をいろいろな方法で表現することが認められています。例えば、目を使って、見ることもその一つです。聖なる大天使たちは、私たちが肉体の眼を通して見える状態に眼の液体を保っていますが、これは基本元素の大天使たちによる大変に集中力のいる仕事なのです。
また、口を使っておしゃべりしたり、意志を伝えたりする時、「私は口を正しい方法で使っていると確信できますか?」「私は愛を与えていますか、それとも言葉で傷つけたり、攻撃したり、侮辱したりしていませんか?」 父は動物から言葉という恩寵を取り上げてしまいましたが、「私はこの父からの贈り物である話す能力を正しい方法で使っていますか?」
キリストは「口を通して入ってくるものは害にはならないが、しかし口から出てくるものは大いに害になる」と述べています。このことからも、言葉には充分な注意が必要です。「私は誰なのでしょうか?」「私はどのように行動すべきでしょうか?」「私は自分の行動のマスターでしょうか?、それともエゴイズムの犠牲者でしょうか?」
エクササイズを繰り返し、自力で答えをみつける力を養いたい。
真理の学びが血となり肉となり、骨の髄まで染みわたるには時間がかかる。それぞれのペースで、適切な量をゆっくり消化していくのが最善なのだ。
このようなレッスンは、何回も聞くと、さらに深くわかるようになります。一回で耳に入ってすべて理解したつもりでも、潜在意識に入るには時間がかかります。何度も何度も繰り返し聞いて、やっと自分のものになるのです。食べ物と同じで、食べてお腹に行き、栄養になるまでには時間がかかるのです。
“繰り返し”(リピート)というのは、絶対無限の存在の資質です。
太字化はNoelが実施
「霊的な成長」にとって最も害になるのは急ぐことだ……とダスカロスはいう。
霊的な成長に最も害をもたらすのが、急ぐことです。忍耐と中庸こそ基本であり、真理の探究とは、誤った方向に行ってしまった思考と行為をあるべき姿に転換していくことでもあります。その後に、私たちはもっと偉大な真理を探究することになるでしょう。そして時がくれば、すべての物事が見えてきます。
これは、真理に興味を持ち、許される範囲で人間の肉体に関して学んでいる人々の第一の責任です。私たちは 大天使 の助けを借りて エーテル・ダブル をマスターし、エーテル・バイタリティー(感覚性エーテル・運動性エーテル・刷り込みエーテル・創造エーテル)をコントロールできるようにならなくてはいけません。そうすれば、自分のサイコ・ノエティック体(Noel註:この用語はおそらく誤植でサイコ・ノエティカル体) の成長のためにも、自分や周囲の人々の健康を守るためにも、それを有効に使えるようになります。
サイコ・ノエティック体となっているが、正しくは サイコ・ノエティカル体。ダスカロスの教えは用語が独特なので、日本語訳にいくらか混乱がみられる……が、教えの内容をある程度理解した上で読めば、とくに問題はないだろう。
【補足】サイコ・ノエティカル体について
サイコ・ノエティカル体 について、ハラランボス氏の著書にある解説を参考に補足しておく。
私たちは、3つの体を持っている と学びましたが、一般には知られていませんが、それとは別に 潜在意識 の中に、サイコ・ノエティカル体という「もう一つの体」を持っています。この体は、初めは小さな卵のような形をしていて、私たちが3つの体を正しく使うようになると、だんだん大きくなって、ほかの3つの体と同じ形になっていきます。このサイコ・ノエティカル体を成長させることが、私たちの目的でもあり、責任でもあります。
たとえば、科学者は一般的にノエティカル体が発達していますが、サイキカル体が発達していません。アーティストは一般的にサイキカル体がとても発達していますが、ノエティカル体があまり発達していません。すると、エキセントリックな人(変人)になります。
すべての人が、潜在意識の中にあるサイコ・ノエティカル体を、きれいな体の形に進化させていかなければならないのです。このサイコ・ノエティカル体が発達して、完璧な形になった時、私たちはエゴイズムから自由になり、この体を使って意識的な 体外離脱 をすることができるようになります。
それでは、どのようにしてこのサイコ・ノエティカル体を進化させるのか? それには 現在のパーソナリティ と 永遠のパーソナリティ の関係を知ることが大事です。私たちは生まれて少し経つと、現在のパーソナリティを表現し始めます。現在のパーソナリティは子どもで、永遠のパーソナリティはその母親のようなものです。
自己を1本の線にたとえると、両端が永遠のパーソナリティと現在のパーソナリティになります。私たちの目標は、この端をつなげて円にすることです。この円になった図が、永遠のパーソナリティのシンボルマークです。
太字化はNoelが実施
ハラランボス氏の説明では、「サイコ・ノエティカル体の完璧な形」=「肉体の形」と読み取れてしまうのだが……ほんとうにそうなのだろうか?
わたしはサイコ・ノエティカル体を、頭と手足のある地球人類の肉体の形でイメージ(視覚化)することに抵抗感がある。というのは、「完全な人間の形態」=「人間のイデア」と考えている からだ。以下のダスカロスの説明を読むと、「サイコ・ノエティカル体の完成」に必要なのは「霊的な成長」だとわかる。
天地創造 における7つの世界は、私たちが 分離の世界 に一時的に滞在する間、霊-魂-エゴ を覆うベールに相当します。もっと深く研究すると、人間の形態は天の王国に含まれるというより、むしろ天の王国そのものであることがわかります。
あなたがこのことに気づいた時、旅人こそ旅そのものであり、探し求める人が探していたもの自身だということが理解できるようになるでしょう。そして、あなたがこの王国を探し求める時、すべての「ものは加えて与えられる」(新約・ルカ12-31)ことになります。
最も意識の高い状態において、人間は聖なる愛、原因、原理、そして天地創造の法則を表現しています。低い次元においては、肉体のように密度の濃い状態で、分離の世界における思考(ノエティカルな面)と感情(サイキカルな面)を表現しています。そして、物質界に属する肉体は自己性のごく一部であるにもかかわらず、現在のパーソナリティーはそれを自分だと思い込んでいるのです。
サイキカル体とノエティカル体は、最初はあまりはっきりした形がありません。私たちはそれを形づくり、スムーズに生きられるように浄化し、洗練された “乗物” にしていかなくてはならないのです。
ほとんどの人は自分の感情や信念にパーソナリティーを支配されていますが、サイキカル体とノエティカル体をどのように形づくっていくか、指示をするのはパーソナリティーのほうです。聖パウロ が焼き物師は粘土から何をつくるか決める権限があると言ったように(新約・ローマ9-21)、サイキカル体とノエティカル体を完成させるのは私たち自身であることを自覚しておきましょう。
物質界から去った後、再び物質界に転生する前に、私たちはサイキカル界、ノエティカル界で引き続き生きています。取るに足りない小さな現在のパーソナリティーに閉じ込められたまま、ほとんどの人が向こう側に行ったことを認識できず、物質界と同じように生きているのです。
私たちがサイキカル体、ノエティカル体としての表現を 自己意識 的につくり上げる努力は、ここにいる今も、その後にわたっても非常に役立つことです。「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」(新約・マタイ18-18)とジョシュア(Noel註:イエスの地上での名前)がいうように。
私たち一人ひとりの 自己性 は、霊-エゴ-存在(人間として表現される以前の 聖なるモナド としての自己)からの延長であり、絶対存在との一体化 の中に留まると同時に、奮闘している現在のパーソナリティーまでのすべてを含んでいます。
父なる故郷を離れることが私たちの選択なのかどうか、疑問に思う方には「放蕩息子のたとえ話」(新約・ルカ14-11~32)を読まれるようお薦めします。そこには放蕩息子の立場から、なぜ父の家を離れたかについて、詳しく書かれています。そこがまさに、人間の自由意志が確立されたシーンなのです。それぞれの魂の主な務めは、一連の転生によって様々なことを学び、豊かになった後にいつか再び、自己を絶対存在と一体化して、テオーシス に至ることです。
個別化された自己性 は絶対存在に「型どり、似せて」(旧約・創世記1-25)つくられ、次のような様々な表現の土台となっています。
第1に、私たちは 自己充足性 を持っています。絶対存在に必要なものが何ひとつないように、私たちもすべてを自分の中に持っています。「天の王国は、あなたがたの中にあります」と聖書にあるように、本来私たちに足りないものなどなく、すでにあるもの以外に必要なものなど、何ひとつないのです。
第2に、私たちは 聖なるモナド として、自分自身の宇宙の中、そして自己性の中に、意識的に自分自身を表現することができます。これと同時に、マクロコスモス的視点から見ると、ロゴス は 共通の自己性 として、宇宙の中でロゴス自身を表現しています。
第3に、私たちはマインドを素材として思考や感情を形づくる力と、自分自身を愛として表現する力を持っています。そしてやがて上からそのように認められた時、私たちは命の担い手であるマインド超素材を単に形づくるだけでなく、放射するという神聖な賜物を与えられるのです。
第4に、私たちは子どもをつくったり、その結果、肉体を得た魂たちの面倒をみるという賜物を授けられています。これは同時に、責任を与えられていることでもあります。このように私たちは、聖霊、聖なる大天使、キリスト・ロゴスと共に、神聖なる計画 における共同創造主なのです。
体外離脱(夢、死後の体験も含む)では、じぶんの霊的な成長度(バイブレーション)に正確に釣り合った次元プレーンに行く。その事実からみても、サイコ・ノエティカル体を3次元における肉体と同じ形にする必要はないと思える。
パーソナリティーがエゴイズムに蝕まれていないのであれば、サイコ・ノエティカル体が肉体と同じ形であっても、別の形であっても、形を持たない光のようなものであっても、変わりなく機能するだろう。