マインドを正しく使う
以前、こちらの記事で「マインドとは何か?」について書いた。今回は、「マインド の正しい使い方」について考えてみたい。
子供たちを取り巻く環境は過酷だ、、、誰もがダスカロスのような良い霊性の先生に巡り合えるわけではなく、周囲にいる大人たちはお手本には到底ならない状況にある。そのような環境で、子供たちがマインドを正しく使うことを学ぶのはひじょうに難しい、、、が、物質界を苦しみに満ちたものと決めつけ、人生に何かを期待することを諦めてしまうのはよくない。苦しみには必ずそれを生じさせた「マインドの誤用」という原因がある。それに気づいた大人たちが自ら率先し、良いお手本を示せるようになれば、0が1、1が2、2が4……となって周囲に希望が広がってゆく。
人間は目的を持って、物質界で生きている。
「人生に何を期待しているのか?」、そして「人生が与えてくれるものは何なのか?」という、2つの質問をじぶん自身に投げかけてみよう……とダスカロスはいう。
1つ目の質問の意義は、人間には幸福や満足を求める資格があると知ることにある。
2つ目の質問の意義は、人生が与えてくれるもの……例えば生まれた国、地域社会、家族、学校教育、人間関係などに対し、じぶんがどのように応じているかを知ることにある。人生が与えてくれる喜びや満足が、永続的とは限らない。そして、じぶんを悩ませる様々な不幸や不満足が、現在のパーソナリティー に潜む エゴイズム(欲望-思考型エレメンタル)を表にあぶり出してくれる。
人生は、最高のパーソナル・トレーナーである。
人間には自由意志があり、マインドを 神聖なる法則 に反することにも使えてしまう、、、が、それによって悲惨な境遇にハマり、そこからなかなか抜け出せなくなる、、、というのは、エゴイズムがひじょうに狡猾だからだ。エゴイズムはしばしば「光の天使」のような顔で近づいてきて人間を騙し、それをほんとうのじぶんだと思い込ませてしまう、、、が、ほんとうのじぶんとは、霊-エゴ-存在(Spirit-Ego-Being)であり、自己認識-魂(Self-aware Soul)であって、その事実は「悪魔のようなパーソナリティー」を物質界で表現しているひとたちにおいても同じである。
正しさを、分離の次元 で相対的に表現されている善悪などの価値観と同一視してはならない。ほんとうの正しさとは、永遠の存在である自己の内側で働く 神聖なる原理と法則 なのだ。
エクササイズ
「真理の言葉」第4章にあるエクササイズを行ってみよう。
エクササイズを繰り返し、自力で答えをみつける力を養いたい。
真理の学びが血となり肉となり、骨の髄まで染みわたるには時間がかかる。それぞれのペースで、適切な量をゆっくり消化していくのが最善なのだ。
「霊的な成長」にとって最も害になるのは急ぐことだ……とダスカロスはいう。
サイコ・ノエティック体となっているが、正しくは サイコ・ノエティカル体。ダスカロスの教えは用語が独特なので、日本語訳にいくらか混乱がみられる……が、教えの内容をある程度理解した上で読めば、とくに問題はないだろう。
【補足】サイコ・ノエティカル体について
サイコ・ノエティカル体 について、ハラランボス氏の著書にある解説を参考に補足しておく。
ハラランボス氏の説明では、「サイコ・ノエティカル体の完璧な形」=「肉体の形」と読み取れてしまうのだが……ほんとうにそうなのだろうか?
わたしはサイコ・ノエティカル体を、頭と手足のある地球人類の肉体の形でイメージ(視覚化)することに抵抗感がある。というのは、「完全な人間の形態」=「人間のイデア」と考えている からだ。以下のダスカロスの説明を読むと、「サイコ・ノエティカル体の完成」に必要なのは「霊的な成長」だとわかる。
体外離脱(夢、死後の体験も含む)では、じぶんの霊的な成長度(バイブレーション)に正確に釣り合った次元プレーンに行く。その事実からみても、サイコ・ノエティカル体を3次元における肉体と同じ形にする必要はないと思える。
パーソナリティーがエゴイズムに蝕まれていないのであれば、サイコ・ノエティカル体が肉体と同じ形であっても、別の形であっても、形を持たない光のようなものであっても、変わりなく機能するだろう。