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乗り越えるために与えられた傷

以前、演奏のお仕事で素晴らしい演奏家さんとの出会いがあって、この方が捉えているであろう音の世界に、心が震えたことがあります。

わたしは普段、お相手の了承なしに、リーディングのようなことはしないよう心がけているのですが、このときばかりは、どういう訳か、勝手に見えてしまった映像とメッセージがありました。

まずは鋼のように強靭かつ硬直した左半身と、首の根元に差し込まれた4本のボルトの映像。

「これらは音の深淵を探り、音と向き合わせるために、自分で設定した負荷」

というメッセージがあり、この壮絶な修行ともいえる課題をこなした暁には、どのようなことをも思いのまま、身体の不調も何もかも、ご自分の力で癒せるようになるそうです。

この方が向き合われている大きな課題を、わたしも陰ながら応援したいと感銘を受けました。

ふと、わたしの右手の人差し指も、同じことなのではないかと気がつきました。

いまだに家事を頑張りすぎたり、長時間弾き続けると激痛が走り、完全には指が曲らない古傷で、ピッチカート(主に人差し指で弦をはじく奏法)もなかなか難しく、本番は気合いでこなすということを、8年以上も続けていたので、すっかり原因を忘れていたのだけれど…

この痛みがあったおかげで、弓や楽器を持つフォームを根本から変え、自分の思考を洗い直すきっかけになったのではないか、と思うのです。

人は体を壊すほどの経験をして初めて、自分の中に手放すべき思考があることに気づくのかもしれません。

そしてそのほとんどの発端は、自分ではどうにもできない何かをコントロールしようとすることから、起こるのだと考えています。あるいは誰かを救いたいという、一見善意に見える思いさえ、結局は同じこと。人はそれぞれに、与えられた課題をこなしているだけなのですね。

コントロールできるのは、自分の生き方と信念だけ。

過去は過去のことなので、怒りも悲しみもないのだけれど、改めて考えてみると、暴力というもののおかげで、屈しない自分に鍛え上げてもらえたのだな、と最後に残った痛みを抱えながら、しみじみ感謝の気持ちが湧いてきました。

そうしてこの一週間…

とても不思議なことに…

まだ半信半疑ながら…

痛みが消えているのです。

完全に曲げることは、まだ出来ないのですが、痛くはありません。

おや?

原因をもっと早くに思い出していれば、ずっと前に治っていたのでは?(笑)とも思いますが、この時間も含めて必要な課題だったのでしょうね。

すべての皆さまが、最高最善に、己の道を進んでいけますように。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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