「魅惑乃鬼」

条件の演劇祭vol.1-Kabuki-に向けて


「魅惑乃鬼」稽古写真_1

歌舞伎を勉強し始めた、まだ、日は浅い

歌舞伎は時代の潮流に合わせて、さまざまに形を変えて、現代まで残り続けた舞台芸術です。
元々は阿国による「かぶき踊り」から始まり、「女歌舞伎」「若衆歌舞伎」、規制を乗り越えて現在の男性だけで演じられるような「野朗歌舞伎」へと変遷していきます。
演じる年代や性の変化だけではなく、作品の形式も踊りだけだったものから、歌が入り、そして芝居も入ってくるようになります。狂言や、人形浄瑠璃とも交流しています。
題材も、歴史的事実をやってはいけないと言われたり、史実に基づくようにと言われてみたり。
ありとあらゆる社会の変化にその時その時で対応をして、400年以上も上演を続けてきていることは、それだけの人々からの期待があったのだといえるのではないでしょうか。


この歌舞伎の歴史的な流れを見ると、現在自分が作っている演劇も、今この瞬間の社会や自分の状態に合わせて変化していく方がいいのかと思います。形式にも形態にも疑問を持ちながら、変化を恐れず取り組んでいくことが求められているのではないかと、考えます。


「魅惑乃鬼」稽古写真_2

岡本綺堂「鬼坊主清吉」

今回扱うのは岡本綺堂「鬼坊主清吉」という作品です。
岡本綺堂といえば「修禅寺物語」や「番町皿屋敷」などで有名な作家です。
新歌舞伎という新しい歌舞伎のジャンルを築き上げた一人でもあり、歌舞伎の歴史でも重要な人物の一人です。第一次世界大戦後に西洋へと視察に行くなどもして、日本の現代演劇の発展に尽力してきた人物でもあります。
この「鬼坊主清吉」は稽古期間中に関東大震災が起こり、上演することができなかった、幻の作品です。調べる限り、その後の上演記録もほとんどありません。(1948年のみ記録あり)
そんな「曰く付き」の作品。世に名を蔓延らせている大泥棒「鬼坊主清吉」が神楽師の家に忍び込み「鬼の面」を盗んだことから始まる、「鬼」を巡った物語。人物たちは「鬼」に魅入られていく。その鬼は、一体なんなのか。


「魅惑」

わたしたちは日々何かに魅入られ、惑わされている。執着してしまう、心を奪われてしまう。それしか見えなくなってしまう。対象は本当に人それぞれ。熱中。夢中。現代は「特定の何か」に執着をすることはないのかもしれない。もしくは、長く何かに執着することがないのかもしれない。時速160キロを超えるスピード感で流行が変わっていく。メディアも変わっていく。それについていくことをどこか「強いられている」気がしてくる。夢中になっているのは、「変化そのもの」なのかもしれません。
魅せられ、惑う。これを一つのテーマにしています。


「魅惑乃鬼」稽古写真_3

「鬼」「アイドル」

そして、もうひとつ。「偶像」。歌舞伎を勉強し始めてから、すぐに「アイドル」という単語が浮かびました。歌舞伎は、アイドル的要素が強い。と感じています。アイドルは私たちにとって偶像崇拝の対象になります。目の前で歌って踊って、芝居をしている存在。現代のアイドルとも重なります。
最初はアイドルグループみたいなものを作って、アイドルソングメドレーで歌舞伎をやろうかなと考えていました。蓋を開けてみれば、そういう感じにはなっていません。
今回出演するメンバーは、とにかくやれることが多い。踊れる、演奏ができる、歌える、映像演出ができる、芝居ができる、照明ができる・メンバーは実像ですが、どこか偶像のようにも感じています。うらやましい。そんな気持ちが湧き起こってきます。


結び

今回のメンバーはすでに「偶像崇拝」の対象になりうるんだ、と思いました。それぞれの個性に僕は魅了されている。そんな魅了されているメンバーが表現するこの作品を、どうかみなさんに見ていただきたい。

どうぞ、皆様。鬼、とは何か。魅惑、とは何か。
魅了されながら、どうぞご覧いただければと思います。

魅惑乃鬼


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