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第9話 【訴訟問題】をきっかけに決意

週刊連載の第9話です。

悩みが尽きない新人エリアマネージャー

マリーナ・ベイ・サンズできらめく夜景を見下ろしたその翌日。一気に現実に引き戻されてクラクラする。

会社行きたくない、働きたくない、なにもしたくない、行きたくない…

頭の中では全否定しているのに、しょぼい責任感から逃れられない。のろのろと朝の支度を済ませて、ホステルを後にする。今日も暑いな。
ホステルからバス停まで5分くらい歩いただけで、じわりと汗をかく。

いつものバスに乗り込むと、クーラーが効きすぎで一気に体が冷えた。
座席に座って外を眺める。熱帯の緑が朝の光で輝いていて、どこを切り取ってもインスタ映えする景色。

どうやら、私はお客さんから訴えられる予定らしい。
前任者が販売した商品に対するクレームが発端だけど、お客さんはとにかく訴えたいらしい。

シンガポールで日本人同士の訴訟、ってどうやるんだろう。私、これからどうなるんだろう。

答えの出ない悩みがべったりとくっついて離れない。このままバスに乗ってどこか遠くに行きたい。

とはいえ、ここはコンパクトシティと称されるシンガポール。国土の横幅は本八幡から吉祥寺くらい。遠くに行くとなると国境バスに1時間乗ればお隣マレーシアに着いてしまう。

今日パスポート持ってないから出国できないなあ、ハハッ。
なんて考えていたら降りるバス停に着いて、結局おとなしく降りた。

しょうがない、お給料をもらって生活するため。今日も働かないと。
無理やり気持ちを切り替えるけど、体が重い。

開店前の薄暗いショッピングモールの中をとお店に向かってとぼとぼ歩くと、遠くから笑い声が響いて聞こえる。うちのスタッフかな。

案の定、ネクタイ売り場の角を曲がってお店が見えると、スタッフ2人がひとつのスマホをのぞきこんで笑っていた。朝からにぎやか。

おはよう、と声をかけると、大笑いのままの表情でおはようと返してくれた。
そこから会話がはじまることもなく、2人の関心はすぐにスマホに戻る。

もう少しなにか話してみたいけど、共通話題もない。
日本人なら天気の話をするけど、毎日気温30度のシンガポールでは「今日も暑いね」「そうだね」で会話終了。

2人は中国語で会話しながらゲラゲラ笑っている。店舗スタッフの彼女たちが働くなかで、訴えられるなんてことはないんだろう。いいな。

エリアマネージャーなんて責任重大なポジションから逃げ出したい。
決められた範囲と内容の仕事をやって、その分のお給料をもらいたい。

でもシンガポールは転職を重ねてキャリア形成するジョブホッピング社会。転職しても役職は上がり続けるしかない。未経験でも新人でも関係ない。与えられた役職をやりきらないと。

2本の電話で急展開

ふいにカウンターの上に置きっぱなしのスマホが光って振動しだした。
固定電話の代わりに店舗に支給されているお店のスマホ。お客さんからの問い合わせやスタッフ同士の連絡に使われている。
開店前に、なんだろう?

震えるスマホを手にとって画面を見ると、知らない番号からの着信だった。
国際番号がついてる。あれ、+81から始まる番号だから、日本からの電話だ。本社かな?
本社との連絡は全て会社のメールで、電話がかかってきたことはない。

通話ボタンをタップして、もしもしと言いながら耳にあててみる。

もしもし、あの、わたくし、スズキと申します…

ぼそぼそと聞き取りにくい女性の声がした。
スズキさん? スズキさん…

あ!!! 確か訴訟問題のお客さんがスズキさんだった!

え、この人に訴えられるの? こんな、か弱い感じの声の持ち主に?

「あ、はい、あの…現在のエリアマネージャーを担当している者です」

はあ、そうですか。現在わたくし、御社を訴える準備をしておりまして。

「ヒャイッ! あ、その、存じております」

緊張して声が裏返った。なんで、いきなり電話?
探りを入れようとしているとか?
こわい。でもなんか余計なこと言ったら不利になるのかも。慎重に言葉を選ばないと。なにを言えばいいんだ。この人はなんで電話してきたんだろう?

あの、私の担当だった方はそちらのお店にいらっしゃいますか?

「いえ、前任者は退職いたしまして、一応、私が後任です」

ああ、そうなんですか…ご退職なさって…新しい方が。

私の言葉を繰り返すようにつぶやきながら、なにか考えているような無言の時間が流れる。
心臓がバクバクしっぱなしで、スマホを持つ手が震える。
いきなり何か言われるんだろうか。荻野さんとの電話と同じくらい怖くて緊張しっぱなしだ。

わかりました。それでは引き続き準備を進めます。では失礼します。

ぼそぼそと一方的に言われ、いきなり通話は終了した。
なにこれ?

目的不明の会話から開放され、カウンターにべたりとうつぶせになった。
訴訟の原告であるスズキさん。もっと高圧的なマダムを勝手に想像していたけど、声の感じは全然違ったな。

電話、なんだったんだろう。元の担当者としゃべりたかったのかな?
まあ余計なことは言ってないし、大丈夫かな。問題にならないといいけど。疲れた…。

あ、もうこんな時間だ、お店の開店準備しないと。電話が終わったあとも、しばらくカウンターから動けないでいた。
スタッフ2人は2人で商品の陳列や備品チェックを初めている。こういう時だけさっさと動く。終わったらまたスマホとおしゃべりに戻るために。

カウンターのパソコンの電源を入れて、開店前の入力やメールチェックをする。
新着メールが1件あります、というお知らせ。本社からだ。

『打ち合わせがしたいので、このメールを見たら電話ください』

メールでやりとりを続けていた本社の人が、電話をくださいと言っている。
なんの打ち合わせだろう? スズキさんの訴訟? きっとそうだな。

荻野さんといい、この本社の人といい、言いたいことだけ言って重要な情報が分からない。
親切じゃないというか、一方的というか。
気づかないうちに、私もこんな言い方してたりするんだろうか…。

+81の国際番号をつけて、メールに書いてあった携帯番号に電話をかける。
プルルル、とコール音がしたらすぐにつながった。

お疲れ様です。さっき、スズキさんっていう人からそっちに電話がいかなかった?

電話の相手は挨拶もそこそこに、いきなり本題を切り出した。会話が早いよ!

「あ、お疲れ様です。電話、ありました。」

やっぱりそうか。その件ね、訴訟。こっちの本社で対応するから。

え…。
訴訟、本社、対応…私じゃないってこと?

「私が訴えられるんじゃないんですか? うちの荻野は、私が対応するようにって…」

訴訟対応なんてそんな大変なこと、入ったばかりの新人さんに任せるわけないじゃない。
びっくりしたでしょう? 荻野部長にも今朝通達したから。
じゃああとはこっちに任せてね。こういうこと、この業界ではよくあることだから。あんまり気にしないで。

はい、はい、とうなずいていたら電話はあっさり終わった。

そっか、訴えられるんじゃないのか。そんなこと、新人に任せるはずないのか。

やったーーー!!!

先が見えないストレスから開放された、両手を上げて叫んだ。

お店の外を歩くお客さんがちらっとこっちを見たので、あわてて姿勢を直して営業スマイルをお返しする。

こうして初めての海外就職で初めて直面した訴訟問題は、奇跡的な本社対応(まぁ、よく考えればそれは当然なことなのだけれど)によって救われた。

このままじゃいけないと確信して次のチャレンジへ

このストレスとプレッシャーだらけだった経験からわかったこと。
本社はまとも。そして荻野さんはおかしい。

エリアマネージャーという肩書きを与えられたとはいえ、知識も経験も全然足りない私にできる仕事は限られている。
そんなことはおかまいなしで、荻野さんはどんどん私に仕事を回してくる。訴訟問題の対応のようなものまで丸投げ。

そして交わす言葉のひとつひとつが辛辣で、会話をしているとストレスで押し潰されそうになる。

初めての海外転職で、平社員よりひとつ上の管理職。
エリアマネージャーの仕事ってこういうものだ。できない私がダメなんだから、もっとたくさん働かないと。
そう言い聞かせて、できないことも分からないことも、ググったりマニュアルを読んだりしてなんとかやってきた。
理不尽も不条理もあるあるの連続。海外の日系企業で働くってこういうことだ。

そしてなにより、初めての海外就職での連続不採用という残酷な結果。オフィスカジュアルなゆるふわOLを目指して、なんて到底ムリだった。甘かった。
私は職場を選べる立場じゃない。私でいいと言って雇ってくれたのは、荻野さんとこの会社だけ。

ーーだからと言って、この環境じゃ続けられない。

荻野さんは言い方はめちゃくちゃだけど、クビにするとか私を追い出すとか、そういうつもりはないらしい。
ブラック企業は人手不足のようだ。

前回は収入ゼロの無職での仕事探しだったけど、今回は状況が改善した。今の私には仕事も収入もある。
なんとか仕事を続けながら、今度こそいい会社を探して見つけよう。

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