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清廉缺落4:白夜を裂く


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第四楽章:白夜を裂く

改札を通り、演説が行われている大型看板の前を通り抜ける。相も変わらずこの景色は、いつ見たって煌めき、雑多、少しばかりの寂寞を孕み、そして果敢なく強く美しいこの世界こそが白夜だ。世界中、どんな絶景スポットが点在していようと僕は、この視界に映し出された歓楽だけがどうしようもないほど狂った愛のアジトだと思う。裂けど裂けど無意味に再生する、屈強な陥落地。


 所々に欠けのある地面に広がるコンクリートのパズルを、誰ひとりとして完成に導こうとする者は現れない。永遠にラストピースを嵌めるに至らない、踏まれて中身が染み出た誰かのホッカイロ、堂々たる面持ちで鎮座するハチ公、それを覆うようにして枝垂れる桜。満開の桜には正月飾りが括り付けられており、大型ビジョンに表示されたサンタクロースは微笑み、狂ったようにメリークリスマスを叫び続ける。

【れ、でぃ、い、す、え、ん、じぇ、ん、と、る、め、ん、め、り、い、く、り、す、ま、す】

   一文字ずつテヌートを施すが如く、言葉で渋谷は丹念に舐めあげられる。プレゼントなど所持していない白髭老人にこの街は支配される。

 鎮座するハチ公付近では誰かを望む待ち人が疎らにスマホを操作する。満開の枝垂れ桜の木の麓、手すりに軽く腰掛けた女が僕の視線に気が付いたのか、徐に視線をスマホから外し、こちらへと向けた。女か否かは定かとは言いきれぬが、胸あたりまでの巻き髪で、ブラックのタイトスカートを穿いていた。その一呼吸空けた隙間にはスーツを着た男がおり、その付近には女子高生の二人組がいる。

 確実に顔がこちらを向いているのに、表情は黒く煤けて窺えない。彼らだけではない。此処に居る、誰一人として表情を窺える者が居ない。6Bの鉛筆で雑に塗り潰したみたいに顔にモザイクがかかっている。この世界に迷い込めば、もう元には帰れないのではなかろうか。

 昔見た某ジブリ映画では、全ての出来事が現実だったのだとラストシーンで匂わせ、読者を唸らせる描写があった。出逢った龍、口にした握り飯、掌に握り締めた行ったきりの切符。光る髪飾り。だが、今僕が経験しているのは紛うことなき非現実空間。堂々たる虚妄の狭間だというのは、無論、頭で理解出来ているらしい。魂がスクランブル交差点に降り立つ。だが、身体は現実にいる。生きたまま魂を浮遊させている。これが白昼夢というものか――


 信号が変わらないガラクタ機械を凝視していると、スマホから目を離さない者達から離れて、位置情報のピンを差したみたいに存在を示す女が見えた。彼女は何の行動も起こさず、手にスマホを持つわけでも煙草を口に加えるわけでもなく、エナジードリンクの空き缶を片手に備えるわけでもなく、ただじいっと一点を見つめていた。人々は遂に青へと変わった信号に倣ってオートモードの如く進んでゆくのに、この女だけはその場から一歩も動こうとしなかった。全自動の玩具みたいに人々はごった返した横断歩道を渡るけど、彼らは個を持ち、意識を携える。何も考えていないんだと、魂に道筋を任せる者もそれ相応の個がある。個が個を避けて、軈《やが》てそれらが往々にして個々夜の裁断に成功する。そんな恭しき美学さえ体内から排除し、黙々と俯瞰する女だった。

 スクランブル交差点をじっと見つめ、立ち竦む女を、ポケットティッシュが囲んでいる。周りの者はそれにさえ興味を示さない。女の足元はもう白いポケットティッシュの残骸が雪の如く降り積もり、言わずもがな妙で、そして提言すべくは美しい。音を立てながら積もるそれらは粗雑なビニールの、なんとも形容しがたい異音を立てる。遂には通行人に踏まれ、そうであろうと女はスクランブル交差点を凝視していた。仮にも、デモ隊がそこを占領するより、確定的に妙であった。

 蒸し返す気温の暑さと、真夜中だっていうのに眠らぬ街。気味悪く咲き誇る真夏の忌々(ゆゆ)しき桜。異様な熱帯夜の高い湿度によりハリを無くしたもみの木、それから同じく萎びた門松、紺を突き抜ける精悍かつ聡明な高層ビル群を攻撃すべく音割れでループする三千里薬局のテーマソング、TSUTAYAから流れくるLast Christmasを背後にモニターに映し出される、どこかの誰かへ向けたハッピーバースデー。


「おねーさん、これも」
「もういっこ」
「これもね」
「これも。あ、てかおねーさんめっちゃ可愛いね」


 次々に乗せられてくるポケットティッシュに目もくれず、女はそれでも魂を抜いたようにして立ち竦んでいた。死んだ魚みたいに人生に堕落した結末の権化を予測していたが、違う。彷徨っているのだ。迷い込んだのは僕で、彷徨うはこの女。僕の前髪は湿度で額に貼り付いたが、女のストレートヘアは畝りを見せずサラリと靡いた。数名のティッシュ配りが持つダンボールの中身は地面のコンクリート如くびっしりと敷き詰まったそれらの塊。ゴミ箱にでも全て捨ててしまえばいいものの、そうはせず、律儀に配り終えねば仕事が完遂されないようだ。律儀な彼らは皆、黒のコートに銀色の仮面を身につけており表情が伺えない。体温に近いほどの熱帯夜が予想される中、汗ひとつかかずにコレモ、コレモと手を差し出し続けるのが気味悪い。かくいう俺も、薄手のジャケットを羽織っているものだから物言えないが。もしかすると君だけが、この違和感でしか存在出来ぬ、そんなイカれた世界でナチュラルに存在し過ぎていたのかもしれない。

 守る、護る、衛る、マモル。――これらの言葉選びに今、僕の内側でヒットするキーワードは無かった。だが、このままポケットティッシュの、乾ききった獰猛な魔の、腐敗した餌食になんてできない。このまま彼女を放っておけば、軈てそのまま、上に見えるビジョンにでもなにか見つけて飛び去ってしまいそうだなと思って怖くなった。怖いと思えるのはそこになんらかの情が孕むこと、それは相手への悲劇の督促状なのだろうと、ぼくはこの世界であってもきちんと理解ができていた。なのに、正々堂々とそれを叩きつけた。恐らく、膨れ上がった情は既に熟れている。手遅れだった。


   「ちょっと、」


 そんな無駄な思考を巡らせる間さえもポケットティッシュは彼女に塗れ続けるので、空気を切るように言葉を発し、俺は手を伸ばした。女へ向けたのか、ティッシュ配りに宛てたのか、自問に自答出来なかった。乾いた構内に小さな「ょ」は発音が難しく感じられ、実際には「ぉっと、」と発せられてしまっていたかもしれない。思ったより細い気道で空気を吸い損ねて、肺に入り込んだ空気をそのまま吐き出したみたいだ。場に合わぬ言葉を発する時、声は鋏になる。

 男───かは定かではないが、体格声態度諸々から男だと推測したティッシュ配りは声の主であるこちらに首をぐるりと90°回し、こちらを一瞥した。周りの、他の者と違うのは仮面を嵌めているという点だけ。結果的に表情という表情が一切悟ることが出来ない。それに於いては変わらないが、不気味の一触即発、もうどうにもならない世界に彼女を陥れるわけにはいかなかった。いや、僕が陥落を恐れていたのかもしれない。

 声で裁断した空気に萎縮する間もなく、視線を一度落とした。その様子でも女は未だ一点を見つめて動かない。一瞬たりとも此方に隙間を与えはしない。悔しくなった。突発的な悔恨、それにはあろう事か怒りも蔓延り、僕の中には波紋が広がる。ふざけんな。僕は刹那、女の手を確かに掴み、そして強引に引いて、闇夜の交差点の真ん中を走る風で切り裂いた。信号は赤でも青でもない、白だった。人も車も掛け算を忘れ、バグを起こし、塞き止められていた。意味がわからない。強引に掴んだ掌の、指の、その隙間から抜けていく風が溶かした夜みたいで気持ちわるい。僕は介入しない。人が倒れてようが物を落とそうが何だろうが、他人に一切の無駄な介入をしないと決めているのだ。それが体内に於ける人間の欠落、そうであろうと僕も誰かの介入を赦さない。道理にかなっているではないか。そう願うのが僕のスタンスである筈なのに、記憶が改竄《かいざん》されているらしい。

 TSUTAYA側に渡って、大盛堂との間の道を抜けようとしたが、そちらは通行止めになっており、仕方なく右の通りへと向かう。あの道はこの世界とは通ずる事の無い清廉を模した地であることが通行止めの理由だろう。この場から居なくなってしまわないように掴む手首に爪が食い込むほどギィっと力を込めた。女の差し出していない方の手はだらりと落ちる。平たい手首、細く長く、骨ばった白い腕の先に伸びる艶やかで堕落な指先。

 彼女は無論、引き摺られようと相も変わらず魂の抜けたマネキンみたいだが、少しだけ目を細めてネオンを睨んでいた。地面へと静かに伸びる長く黒い睫毛が鴉の羽のようだ。塗り潰すモザイクが2B程度まで薄まっている。彼女の表情だけは、何とか窺えると気が付き高揚する。指先に通う血液が熱を帯びる。眩さを感じられるのだと分かり、TSUTAYAの横の緩い坂を抜けた。タクシー乗り場を合図に左へと曲がる。低すぎるベンチにはいつも利口な鳥みたいに塊が数多並んでいて、とっくに終電は終わっている時間だと推測するが、どの店舗にも明かりが灯っていた。ZARAのマネキン達は監視カメラみたいに此方を見ている。枢の無いショーケースの檻から彼等が脱することは出来ない。開いたドアの向こうに見える店員も、客も、やはり6Bでマネキンみたいに黒塗られていて表情が分からなかった。なのに、君だけは窺えた。何を見ても無表情。余程ショーケースに閉じ込められたマネキンの方が生気がある。笑って欲しいとか、そんなんじゃないけど、凝視したら君が瞬きをした。こんなに刹那的な生理現象に愛を感じるのは馬鹿だ。掴んでいる手首に再度力を込めて爪を立てたら、なぜか同じ力で自分の心が絞られた。頭で理解するのはこれが現実でないこと。だけど、感情が生まれている。これは欠陥。あるいは欠落だ。女のポケットから先程の廉価なビニール音と共にティッシュが転がり落ちる。街のネオンサインが明滅する。このまま坂の向こうへ抜けてしまえば世界はだらしなく溶けるか。


「ねえ」
「…」


 目的地など決まっていない。僕の中の位置情報は君を指したままで、とはいえ、兎にも角にも走るしかない僕は彼女の手を話すことなく引き、そうして一言だけ呼びかけたが毛頭返事はない。足が速い方ではないが、とはいえ女性を同じスピードで引っ張り回すのはどうだろうかふと我に返り、ふいとそちらを確認するが、やはり魂の抜けた表情で萎えた肉体を移動させていた。心はどこに置いてきたのか、一応引く腕にまかせて連れられてはいるらしかった。角を曲がった細い抜け道のシャッターは、黒砂を落としたみたいに半分消えた落書きで塗れた。人は愛を塗り潰す為に、塗れた欲に擬態させるんだと思う。


「ねえ」
「…」
「なんでアイツらから逃げないの」
「…」
「ティッシュなんて要らないでしょ」


 なにを問い掛けても受け取られないから諦めて、とりあえず走った。掴んだ手首が傷んでしまわないかと怖くなり、一瞥する。爪を立て、攫っておいて、配慮といった念が沸いた自分に苛立った。おそらく先程のティッシュ配りは追いかけてなど来ないと、そう頭ではわかっているはずなのに、一先ず彼女を連れて逃げることだけを考えて。ゆっくり空気を吸うと、バニラを燻らせたみたいな、芳しい匂いがした。電車に居たジョーマローンとは違う、神秘を煮詰めたディプティック。雑多に抜けていく風を時折孕んだ艶のある黒いストレートヘアは、悩ましげに緩やかな曲線を描いてさらりと凪いだ。翻したコートみたいだと思った。

 ここは唯一ギブアンドテイクが成立する街なのだと、いつかタイムラインを遡ったとき目にした気がする。この世界一フェア、追随を赦さないこの街で、僕は君からどんな視線を向けて欲しかったのだろう。人は、愛した物を忘れるべく愛に塗れ、濡れ衣にするんだと思う。

 女はほんの少し左の口角を上げた。瞳で此方を貫き、それは信じる余念もないほど狂気で、瞳は光がないのに美しかった。砕くに至らず鑢(やすり)をかけた黒水晶。この瞳を国立新美術館に寄贈出来たらどんなに救われるだろうか。ルーヴルでなくてもいい。巣食う艶羨(えんせん)を、掬うことが出来るかもしれない。いざなわれるようにして、僕も瞬いた。眼を大きく開閉する行為が、刹那を体現するに相応しいと思ったのは初めてだった。睫毛が目に入って擦り合わせるのと何が違うのかなんて分からないこの凡庸な瞬間に、できるだけ永く黒水晶を視界に認められるかを、脳みそをフル回転させて考えた。眠っているのに考えるという形容が適正なのかなんて分からない。だけどもし、仮に僕がこの世界で彼女に奈落に沈むまで嵌められていたとしてもどうだっていい。白昼の微睡みの一環、目を覚ましてしまえば夜でさえ継続できない怠惰な世界がひろがる。そんな世界よりは寧ろ、本望だった。

 だが僕の眼が開いて、黒水晶と落ち合ったその刹那、闇へと放られた。ネオンが全て消えて、雑多な生活音、煌めきに喘いだクリスマスソングも無音へと姿を変えた。飲み込まれた闇は案外深い。夢は奈落の闇である、そういった現実は簡単に具現された。もう一度瞼を瞬いた時、意識は真昼間の研究室へと戻されて、夜が一瞬で真昼間に戻ったものだから目の奥が酷く違和感を起こした。君はいない。

 醒めた虚妄を想起すれば、研究室の水槽に映る自分が水面に任せて揺れた。



𝑵𝑬𝑿𝑻 ▶︎ 𝑳𝑨𝑺𝑻 𝑬𝑷𝑰𝑺𝑶𝑫𝑬
第5楽章:ケツラク

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