見出し画像

清廉缺落5:ケツラク


第四楽章未読の方はこちらから↓


ラストエピソード 第5楽章 ケツラク

ケツラク

例えば明日、雨が降るとして、その降水確率をスマホで流し見する姿が悔しいほどに淡麗だから、僕は明日君の前から姿を消すのだと決めた。燻らせた煙草は誰かが棄て、踏み躙り、どこかの野良猫の気道を塞ぐ陰湿な凶器へと変わる。誰かの笑い声で誰かが苛立つ。誰かのことだと語るのは逃げだが、俺はやはり決裂の端でしか生きることが出来ない。

 A棟は建設されて年数の経過していない広告塔だ。そういった、パンフレットやサイトに大々的に紹介される様子から受けると建前こそ洗練された真新しい状態に思えたが、そういった印象に反して、内部に設置されているテーブルやベンチなんかは不思議とどれも角が抉れ、日光が当たらないはずなのに変色が目立つなど劣化も散見される。


「なァ」
「ン」
「このテーブルなんでこんな折れそうなの」
「…知るかそんなの」



 早瀬がそういった、不利益な、公的自然現象に興味を持つのは初めてだった。だから微かに動揺した。テーブルが老朽化していることで彼になんの問題も起きはしないのに、何に対しても無関心な彼がそれに目を付けたのか不穏で仕方がなかった。理由さえ詳らかに出来ない。



「売りは美しさだった癖にな」
「…理想と現実は違うってことだろ」
「俺は」



 被せるようにして「俺は」と前のめりに重ねた早瀬の声が空洞のような廊下に響く。僕の声はたぶんずっと、どんな世界にも届かない。早瀬なら届くのに、だから、早瀬にはそういった存在であって欲しかった。

なのに、その後彼から発せられた「どれも現実だと思うんだ」というたった一言が僕の中を抉る得体の知れない憎き塊を突き動かした。

 現実、リアル、現(うつつ)。

 早瀬の口からそんな非合理的なキーワードが発されたことは想像以上の衝撃だった。これらの設置されたテーブルその他がどこかから流れてきたお下がりだったのか、たった数年の経過でボロボロになってしまったのか、そういった推測はつかない。外側が美しければ、だれも、内側の劣化には気が付きやしない。



 早瀬は隣で長い脚を丁寧に折り畳み、細身の体型とは裏腹にドカッと音をさせて座った。

 男二人でせまぜまと隣同士座るのもなんだか薄気味悪いので、ひとつ隣りのベンチの埃を払って自分も腰をかける。そうして、払った埃が喉に入って咳き込んだ反動で息を吸い、僕は成り行きを発する。



「傘をさ」
「傘?」
「持ってくか、やめるか、朝悩んだんだよ」
「ほお」
「どっちにするか、誰が決める?」



 こんなこと聞きたかったんじゃない。傘を持っていこうがそうでなかろうがどうでもいいし、増してやそれを自らの決断でもTwitterのタイムラインで東京は傘要るらしいと書いてあったから早瀬が持ってこようと、他人に渡されたビニール傘であろうと、皆目見当もつかなければ興味も無い。


「はァ?人のもの?」
「いや、早瀬のもの」
「俺のなら俺が決めるけど」
「…だよな」


 だよな、それは心の奥底から喉元を通り発された言葉であることに相違なかった。個の中に存在する愛しき存在へとおおよそ選択を迫ること、それらは到底許容されるものでないし、分かって欲しかったとかそんなんじゃない。そんなんじゃないのに、僕は、何を求めたかそう発した。

 一般的な───世間的な答えがそうでしかないことを、理解しながら期待した応えを求める自分をひどく利己的だと思う。こんなところでリップサービスされたって逆に情けなくなるだけだから、当然の解答をしてくれてよかった。よかったのだ。


「まあでもさ」


 言葉を噛み砕こうとする俺に被せるようにして、もう一度言葉が降った。リップサービスなら要らなかったのに、そういう訳でもなさそうだったから水を飲んだ。スーパーで適当な種類の水なんか買うんじゃなかった。こんなに水が不味いと感じたのは初めてだ。やっぱり五分早く家を出て、コンビニで天然水を買うんだった。そんな馬鹿馬鹿しい感情の狭間でも、さしこむような胃に沁み込んでゆくつめたい水は利己心を宥めた。コンビニの二百八十円の水と百円で二十円の釣りが来たスーパーの水に差はなかった。




「誰かが決めてんのかも」
「…」
「自分が決めてるって思ってるだけで」




 返事の代わりに喉を潤したら自動販売機が唸った。冬の夕方暗い廊下に唸るエンジン音はいやに不気味で、おまけに十八時の施錠時間を意識させる。もう時間は過ぎているのにまだ心のどこかに猶予があった。



「占いだってそんなもんだろ」

「占い?」

「あんなの誰でも信じられるように出来てるわけ。」

「…説教?」  


   早瀬は非合理的な手段ーーウラナイの整合性について説きはじめた。占いのトリックもマジックの種明かしもお説教と変わらないと思う。明かす方と説く方の快楽心はイコーリングされるものではないだろうか。



「これのどこが説教に聞こえんだよ弄れすぎだわ。で、例えば "貴方は意外と弱味を体外に出すのが苦手なタイプではありませんか" って占い師が言うわけよ。そしたら言われた側は泣き出すテンプレ的な流れなわけ。分かってもらった感が出るから。わざわざ相談料にたっかい金払ってるわけだし、ってのも、そもそも、人間弱味握ってそうで握ってないし、強がってそうで強がってないし、馬鹿そうで賢いし、畏そうで低脳なんだよ」

「…うわ、やっぱお前なんか嫌いなタイプ」

「失礼すぎふざけんな。…愛そうが棄てようが、ちゅーるやろうがオイルサーディン差し出そうが所詮、型になりそうでなんねえってわけ」

「意味不明。…てかここで吸うなよ」




 隣でカチカチとライターを鳴らし、意味不明な持論を繰り広げながら器用に先に小さな火を灯すので凝視する。火災報知器が鳴りでもすれば俺は迷わず素知らぬ他人を装うことをここに誓う。此奴はタバコが赦されるのに、俺はそれを許されない。同じ学年なのに早生まれなだけでうんと出遅れた心地がする。遅れる癖に早生まれなんて紛らわしい名前付けんな。早瀬は煙がこちらに来ないよう配慮するくせに、入ってもいないサークルの新歓呑みには誘ってくるのだから躊躇った。


「誰が決めたんだろうな」
「は?」
「天使は天国、悪魔は地獄なんて」
「…」
「じゃーな」


 そう言いのこし、吸殻を捩じ伏せて行ってしまったので唐突に静寂が訪れる。今思い返しても早瀬の占い持論は意味不明だった。だが、生憎その内側に心酔を飼い慣らしていることに気付いた。遂には自販機まで黙りこくる。誰が決めたのか、この世には理不尽なことが数多存在する。朝をはじまりとすること、夜をおわりとすること。渋谷の工事がいつまでたっても終わらないこと、レポートの提出日が休日なこと。でも、君だけは、いつも僕の中で時間軸を固定しない。フェアだからだ。値段相応のカツカレーのように。

 誰もいない構内のエスカレーターに乗り、身体はベルトコンベアに乗せられたアマゾンの荷物の如くエントランスへと運ばれる。大学の門には百均で買ってきたみたいなオモチャのサンタがぶらさがっていて、学生会館のスタッフは頭にトナカイの角を乗せていた。豆電球を巻かれてピカピカ光る門の端で頼りなさそうに立っていた警備員にさよなら、と声を掛けると、バツ悪そうに肩を竦め、ハイ、と返された。休日出勤させられたうえ咎めることなんて何も無いのに肩を竦める警備員のジャケットよりも薄手のMA-1程度では、12月半ばの冷気はもう凌げそうにない。僕も同じように竦めると風が痩せ細った木を揺らした。

 ――まもなく渋谷へと到着する。鉄骨に覆われたままのこの場所は間もなく工事が終わるだろうか、今年、来年、終わりを予測しては年末には変わらず在り続けるオレンジ色のクレーン車を眺める。無骨なロータリーには洗いざらしの魂が点在する。耳に差し込んだままのノイズキャンセリングを放棄したエアポッツは吸い付いた耳栓のごとく程よい生活音を取り込み、座席足元の暖房が立ちっぱなしのこちらまで伝わってきて生温く、踏んでしまった他所様のリュックの感触が踵にまだじんわりと残っている。二つ前の代々木で降りていったあの男女は乗り換え先の大江戸線が人身事故で止まったニュースに辟易している時点でもうダメだと思った。そもそも関係性など図れないのだが。オトコとオンナが二人並んでいたところで、恋人か、友達なのか、金で繋がる不埒な関係なのか、そもそも他人かなど様々で、とはいえ予想打にしないことが起きた時、幸か不幸かをどう判断するかでその後の関係性は示唆される。間柄に執行猶予は認められない。ただでさえ綻びに満ちたクマが引鉄を引いていたというのに。

 アナウンスは今日も昨日と同じイントネーションだった。お出口はどちらかをご丁寧に教えてくれる。ぼうっとしているとドアの閉まる案内を受け、慌てて電車を飛び降りた。左側のお出口だった。一瞥もくれず右側へと足を踏み出す。ここで踏み出す方向を決めているのが君だったらいいのに、僕は自分の意志で左側へと足を進める必要がある。もう一度だけ会いたいなんてもう僕らはガキじゃない。だから今すぐ目の前に現れて欲しい。昔描いた夢は理想でしか無かったのだ。理想より虚妄の方がよほど確定的だと感ずるようになったのはいつからか。何度目を瞑れど、掴んだ手首の感覚が想起されるだけ。この愛の行方はどこにも投げられない。



 雨上がりの黒いコンクリートには、映し出されたモニターの光が反射し、踏み躙られた選挙の広告ポスターと、主に放棄されたタバコの吸殻共が点々と居場所を探していた。端の方には役割をなくしてすっかり萎えたビニール傘があちらこちらで放られており、水を含んで煌めく夜のダンスホールに爪先から踵までしっかりと貼り付けたまま立ち位置を掴み取るべくして揺蕩う者たちを、誰が着せたやら分からないレインコートを羽織った忠犬ハチ公が見守っていた。日付変更から間もなく2時間ほど経過する。

 前の人が歩く軌跡をなんとなく避けながら、隣の人が瞳に映す世界を僕の目にも写し取る。丁寧に映し出されたこの夜の残像は、いつか鉛筆で擦り出した誰かに錆び付く。

   新譜をリリースしたアイドルのビジュアルが飾られたレコード店の向こうには西武が見える。もうシャッターが閉められていて、殆どの店舗からは温度が感じられなくとも、この地は眠らない。誰かの生み出す光、あるいはノイズで荒い呼吸は繰り返される。私は本が好きだった。だが、僕は突如として愛しても愛し足りない言葉を紡ぐ著者に出会ったその日から、好きな本は、と訊ねられて、それらしき、書物を俄にして知っている、そういった界隈の者達に耳馴染みの深い小説を、ツウを演じるが如く答えていたにも関わらず、人間とは芯から愛する対象に出会った時、ふと口を噤むものなのだと気が付いた。噤む、という字は非常に禁忌で高貴なものである。口を禁ずる。艶めかしい。知識を入れれば入れるほどクリアになれる気がする。愛する著者の名前があいうえお順であ行だったお陰で、書店の並びで最も高い位置の、目の届きにくい場所に出版本が並べられているのが嬉しかった。もう何冊も家にあるその本を、頼むから売れないでくれと願う。書店でも目にしていたいからだ。売れなければ商売にならない、この屑でさえ無論、理解している。だが、それでも、あの美しく整頓された棚の一番上で、人工的な光に照らされて眠る、あの本は高貴であった。僕はそれを今日も眺めるべく、スクランブル交差点を渡る。誰もが避け合わなくとも、利口に悦楽、個を確保できる、神聖で優美に掛けても掛けてもゼロになれるたかが魔法の横断歩道。




 渡り終えてTSUTAYAへと辿り着いた時だった。

 ぐらりと脳が蕩けるように世界が揺れて、身体が崩れ落ちていく。何が起きているのかは分からないのに身体に反して思考は冷静で、閑に閉じた瞳と同時に手を伸ばした。やっと地面に触れた左手の指先は俄に荒々しいコンクリートを感じ、誰かが呼び掛ける声が脳天で共鳴した。身体がアンプになったように震える音の周波のせいで息が上手く吸えない。

 地面へと吸い取られるようにして身体ごと溶け堕ちたのと同時に、横断歩道の端で一歩前に出て立ち竦む女が見えた。スノーノイズの如く欠片一片ずつでしか認識のできない堕落した世界と反して、女はロクシタン側を見つめているのに身体は逆の方向を向いていた。刹那にはバニラとレザーの匂いがして、思わず渡ってきたはずの歩道を、身体では無い何かーーカラダの、脳裏の、感覚が駆ける。喧騒に、あらゆる粗雑な匂いが混ざるこの場所で、微かに吸い込んだ小さな鞘の奥の香《かぐわ》しさ。

「 なあ、」
「…」

 君が発する声を耳にしたくて、そう声をかけた時には既に信号が変わってしまっていたようで、なのに女は一歩踏み出して、耳を塞ぐほどのクラクションと共に猛スピードで車が続々と向かってきたので慌てて彼女の手首を掴み、そしてやはり駆けた。賭けてきた世界一がどこかへ消えるのを恐れて駆けた。あの白昼夢の感覚に酷似していた。真冬のはずなのに汗ばんで、呼吸が荒くなる心地がした。君が歩いてきたその軌跡を踏むように指先で密かになぞって、頭の中を整理すべく息を止めた。窺うと瞳はこちらを強く貫いていた。幻に透けていた瞳は色を無くし、トレイスペーパーのようにくぐもっていたはずだけれど、今、目の前でこちらを貫くのはグレイッシュに研ぎ澄まされた露のような瞳である。躙り寄ると、唾液が口内に纏わる。

女は何処吹く風でこちらを見つめるので、瞳を貫き返すと僕の姿が透けた瞳に映された。瞬きさえも惜しいような水晶体は深夜の街のモニター類の光をも奪ってしまいそうだと思った。


 女はもう一度僕を視界に認め、そして形のいい唇を少しだけ開いて息を吸い、そして吐き出した。そんな一連の何不思議無い仕草に視線は奪われる。

「…ひとつだけ」

ひ、と、つ、だ、け。この世にこんな雅な声音が存在するのかと思うと、掴んで瓶にでも詰めてやりたいという心地にさえなる。地下鉄のようなくぐもった場所であっても、恐らく彼女の声だけは舞い踊る。強《したた》か極まりないペテルギウスのような、その声だけは風音、雨音、車輪の擦れる音、全てを無きものにする。


「え?」


それに比べて腑抜けた僕の声は鼻の奥底から濁った泥のように街に落ちた。間抜けな音を発して羞恥に塗れた僕はあちらの方の暗転しそびれた空へと視線を放った。雨の匂いがした。

 「ひみつ」
 「え?」
「…秘密を共有しよう」
「ひ、みつ?」
「そ、ヒミツ。」


 そう言って、女は人差し指の爪を上唇の先へと当てた。ネットニュースに蔓延る有象無象、それらはおそらくこの爪の先で弾き出せる程度の品々であろうと思う。



「なんのために」
「私と、そして君は、秘密だけを共有するの」
「…」
「それ以外には何も半分こしてないでしょう」
「そんなの、」
「ジュースも、アクセサリーも、そして愛も、
そんなの共有するよりも」
「…」
「秘密を分けた方がよっぽど簡単に繋がれる」



  腑抜けた僕を無きものにして、女は淡々と続けた。まるで水道から水が閑に流れ続けるように、普遍とした車内アナウンスが流れるように、違和感無く続けた。そして"それ"は確信に変わった。お前は、――



「お前は」
「…」
「早瀬なんじゃないのか」



この女は、僕の中で成長してしまった、誰かを愛する早瀬を具現した虚像だ。ハヤセという偶像的人物は所詮展望した固形物なんかじゃなく、どこかの誰かを求める欠陥品だというのは心の中で理解出来ていたはずなのに、それでも、黒いコートを翻して寡黙に嗤う、誰のことも心底信じていない筈の偶像をどこかで展望していた自分はその姿を見切ることが出来なかった。結局、それは、俺にもそう言えることで、俺自身が下らないと唾を吐いた先に存在するものは他でもない下らぬ同一物だった。


 夜風に晒された髪の毛が表面から靡くのを傍観し、後退り、心を絞る。真冬だというのに汗が吹き出す。クリスマスソングが流れる。街路樹には煌めくイルミネーションライトが装飾され、浮かれた人間が嗤う。茶色くくすんだダイヤモンドでさえ高圧高温処理を施せば無色透明にできる技術があるという。研ぎ澄まされることのない現実、躙り寄る虚妄。神話の世界では欲を注ぎ込んだ彫刻も軈て愛すべき女として現れたというのに、なぜ赦されざる奇怪なのだろうか。

 スニーカーの底がザラりと地面に摩擦するのを合図に目を閉じ、そうして二度ズレの生じた音程を受容した。――君はいない。アウフタクトみたいにその世界へと安易に跨げれば良いのに、僕の願う君もお前も、そうでしかないだなんてそんなの馬鹿らしい。


 ゴキゲンヨウ、そう呟いたら全てが消える気がして、僕は左ポケットへと手を掛けた。弄《まさぐ》ると一緒に入れていた鍵とそれはぶつかり、カチャカチャとちゃちな音を立てた。そしておもむろに、飲み込んだ唾が喉を通過していくのと同じタイミングで抜き出した鋭い刃先はネオンに晒されて、キラリと光を持った。図らずも奇麗だと思った。後ずさった軌跡をもう一度繰り返すように躙り寄り、僕は刃先をそちらへと向けた。力を込めれば込めるほど、反して手が震えた。一筋の汗が顬《こめかみ》から流れ落ちる。スウ、と息を吸うと目が合った。貫かれると哀しくなる。なァ、どうしてお前なんだよ。目の前の此奴は悠然とペットボトルに口を付け、水を含んだ。僕はその余裕たる態度にまた堪らなく、やり場のない感情が飽和状態になって、更に三センチほど、ザ、と音を立てて躙り寄った。


 刹那、此奴は音もなく微笑《わら》った。

 俄に瞳を潤ませて一度瞬き僕の黒目を貫いた衝動で、今度は此方へと伸ばされた手が後頭部に差し込まれた。指の感覚、共に視界は覆われ、乾ききった唇に熱と湿度が注がれた。口内に流れ込んだ水は身体中に痺れをもたらし、身体を脱ぎ棄てるようにして地面へと項垂れた。微かに薄目で確認できたのは対峙していたその姿で、蝋燭が溶け落ちるように地面へと君は堕ちた。こんな瞬間でさえ綺麗なストレートの髪も、長く地面へと伸びる睫毛も、まるでマネキンを彷彿とさせ、あの日と相違なく明媚であるのが憎らしかった。やがて足の先に力を込めることさえ赦されなくなり、マネキンの隣へとこの身体もコンクリートへと吸い込まれた。僕の手に握られていた銀色の鋭い刃も、イルミネーションの光を反射させ、高い音とともに落ちた。最後の記憶は、君の瞳から伝った一筋の雫だった。






 いつも通るのにふと忘れる道、逆にふと想起される昔のメールアドレス、いつか囁かれたおとぎ話のアナザー・エンド。眠れぬ夜に羊なんか数えるよりも元恋人の"おやすみ"を逡巡させた方がよっぽど効果があるらしい。とうの昔から恐らくそれを知っているけど、それでも一匹二匹と黒い羊を数える。それしか術がないと信じたいからだ。逆さまに落とした魂を誰もが探していて、センター街に転がった花を誰かが踏んでいく。潰れた花弁の中から剥き出しになる花粉は地面を染めた。

 清廉潔白、象徴的なカラオケ店の石膏のミロのヴィーナスは埃をかぶり、割引の広告旗で俄に裸体を隠していた。アフロディテとアレスも、エロスの弓矢に仕込まれた劣情には茫然自失であろう。

 清き廉潔に糾弾せよ。僕は缺落している。






𝑭𝒊𝒏 .

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?