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あいだ通信 no.5:竹取(物語のトポス)

立夏を迎えた皐月のこと。野山にまじりて竹ではなくきのこを採っていたところ、芳醇な香りを漂わす竹一本ありけり。あやしがりて寄りてみるに、ぶくぶくと泡を立てている。それをよく見れば、水を張った竹筒の中で酵母菌がアルコールを醸し、いと生々しく輝きけり。

居合わせた仲間たちと「天然の酒樽だ〜」と騒いで喜び、その場を楽しんだ。そして、山を下りながら「竹取物語を最古のサイエンスフィクション[SF]として面白がっているだけではどうも見落としものが多いかもしれない」ことを感覚的に捉えはじめていた。八月十五夜が過ぎ、かぐや姫が月に還ったタイミングにあやかり、少し思索をしてみたいわけである。

無論、竹の中に女の子はいないし、月に帰ることだって現実にはない。物語ではフィクションとしての作り話があちこちに接木されているものだ。しかし、その中には ” 作者個人にとって具体的で[ 忘れがたき体験 ]が史実として残っているのではないか " ということを問うてみたい。

僕たちが野山で芳醇な香りを漂わす竹を見つけた時、「これは竹の樹液が溜まったところに野生の酵母が降りてきて発酵したのだな〜」と科学的な知識を動員して理解していくわけだが、それ以前に何ともかぐわしい興奮があった。

誰か先に山に入った者が竹を切り、たまたま節を持っていた竹に樹液が溜まり、そこに酵母菌が降り立ち、アルコールが生成され、香りが解き放たれている。誰かの意図や期待が働いているわけではなく、偶然の重なり合いでその状態が生まれ、それにたまたま出会でくわしていることに、喜びが溢れ出ていた。僕たちが反射的に[ 天然の酒樽 ]と呼んだそれは、香りに幾重もの足跡としての履歴がついた「竹の状態」に向けた歓喜の呼び名だった。

野山に交じりて竹を取っていた「竹取ノ翁」はどうだろう。彼にも[ かぐや姫 ]と形容したくなるほど強烈な出会いが山の中であったはずだと、ぼくは思った。でなければ、いくら中空構造をもち、容れ物として都合の良い「竹」とはいえ、その中に[ かぐや姫 ]を見出す発想には至らないと思うからだ。

その時、その場所で目星をつけた竹に、たまたま絶妙な角度から美しい朝日が差し込んだか。あるいはエジソンの祖先みたいな遊び好きの人間が竹の一部をくり抜き、そこで蝋燭に火を灯してたか、蛍がたまたまそこで発光していたか  _____   想像の域を出ることはないが、竹取ノ翁はそこに[ かぐや姫 ]という美女を見出してしまうほどのなにかに出会っていたのではないだろうか。

竹筒の中で自然に醸された酒を見つけた僕たちが、危うく科学的な知識でその場を完了させてしまいそうになりながら、その手前で美しい瞬間や光景を無垢なこころで礼賛していたように。

お前さんは竹取ノ翁にでもなったのか?と言われても仕方があるまい。それでも、物語になる寸前にあったかもしれない一瞬の光景なるものを[ 天然の酒樽 ]という異なる形で体験した気になった。それから、竹取物語が書かれた当時の社会的状況を調べながら、今一度原文を読んだ。

小学生の頃だったか、とにかく暗唱することだけにコミットし、上辺だけをなぞるように覚えた「竹取物語」。冒頭文[ 今は昔、竹取の翁といふ者ありけり ]だけ調べれば、その続きをいまだに暗唱できてしまうほど美しい調子のある文章だ。

物語が創作された当時は、律令制が敷かれた平安時代。賎民(身分の低い)扱いを受けた竹刈人や竹工人にもそれなりの苦労と不満が溜まっていたであろうことは想像に難くない。社会の周辺に追いやられた竹取ノ翁の中心的権力に対する眼はさぞ鋭かったであろう。

結婚を求める貴族たちに難題を持ちかけてはもて遊び、帝のお召しにも応じず、月に帰ってしまう[ かぐや姫 ]。この設定には、貴族たちの知らない世界(野山)で見つけた「うつくしい瞬間」としての[ かぐや姫 ]の力を借りて、権力者の愚行がはびこる身分制社会を一蹴しようとした翁の心理が浮かんでくる。

[ かぐや姫 ]を求める哀れな男たちに当時の貴族らを設定し、その愚行な振る舞いを白日のもとにさらし嘲笑う物語。僕のうがった見方かもしれないが、「竹取物語」はかなり手の込んだアナーキーな作品なのかもしれない。

その真偽は置いておくとして、未だにこの物語の作者は不明だが、きっと竹取ノ翁本人であると、僕は思う。[ かぐや姫 ]という美しい存在に隠された竹取ノ翁自身のパーソナルで具体的で生々しい感情を含んだ生活の歴史。その欠片ほどの一端に、異なる野山・異なる体験を通じて触れた気がした僕は、竹取物語の暗礁部を知らずして暗唱だけしてしまっていたかもしれないことを反省し、学校の教室に帰ってみたのだ。

フィクション扱いされやすい物語の始源はじまりには、生活史としての「個人的体験の歴史」が色濃くストックされているのではないか。フィクション=虚構と片付けてしまいがちだが、出来事を順序立てて並べた公式の「歴史」からは抜け落ちたものたちが、物語や歌、日記ベースの記録の中には「情景」として残っているかもしれない、という構えは歴史に対する正しい姿勢であるような気がする。

異常な生長力や霊的空間を想像させる空洞をもち、一世紀に一回も花を咲かせない異能な植物である「竹」は、竹取物語に限らず、これまでさまざまな物語に登場してきた。

フィクションの眼差しが強い古事記にも「竹櫛」が登場する場面がある。黄泉国よみのくにを訪れたイザナギが左右の角髪みずらに挿していた「くし」を追手に投げると、そこから火が燃え、筍が生えた。ここにも当時の日本の原風景や竹と人の生活史が残っているのではないか。

それは物語だけには限らない。日本庭園に設られた「竹垣」は、戦国時代には土から引き抜けばそのまま武器になった。「景」と「用」を兼ねる庭の中にも血生臭い歴史としての「用」が刺さったままである。

[ 天然の酒樽 ]が醸すかぐわしい香りを前にして、先に山を訪れた者、刈られた竹、そこに着陸する虫や酵母菌らの足跡(履歴)を辿ってみたように、たまたま居合わせた[ いまここ ]は取るに足らない歴史が幾重にも積み重なった場所であるかもしれない。そんな記憶が積もった場所のことをギリシア語で「トポス(topos)」と呼ぶが、物語の中で描かれる情景には、時間を越えて[ いまここ ]にいる「わたしたち」と[ いまここ ]である「場所」をむすびつける力がある。

竹取ノ翁が当時の社会状況として、中央集権型の政治とその周辺に追いやられた野山での生活の様子を「物語」で残してくれた(かもしれない)ことで、僕たちはその時代への「想像の交通路」を手にしている。それは歴史の真相や文化の深層にダイブすることを可能にすると同時に、僕たちの[ いまここ ]に働きかけているかもしれない。

なにかで知っているような、どこかで憶えているような情景が「おもかげ」として現前するようなことがあれば、ぜひ立ち止まりたい。そこは大抵賑やかで騒がしく、ものたちが音を立てるようになにかを語っている。


Text by Keisuke Saeki | 星ノ鳥通信舎
KV Design by Sakura Ito | 星ノ鳥通信舎

● あいだ通信 | 星ノ鳥通信舎
間合いの国・ニッポンの⽂化に息づく「あいだ」の思想や技術をさまざまな⾓度からリサーチする星ノ⿃通信舎のnote連載企画。「あいだ」の顔をしたものごとに深入りし、新たな視点や対話のかたちを探す。アソビ半分・マナビ半分の遊学記。

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