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教壇に立ち続ける 71 「知」って何だろう【note限定記事】

久しぶりにひとりでツイキャスをやりました。どうにもトークが苦手なので、おしゃべりの訓練。どうも星野です。今日は定期更新日ではないのですが、考えさせられたことがあったので記録しておこうと思って筆を執りました。いいなと思って頂けたらサポートをお願いします。minneとFantiaはこちら。受注生産品・1点もの等作品が徐々に増えております、投資するなら今! 全国一律送料無料、即日発送可。

今回教職に関するあれこれを話すツイキャスをしていたら、こんな投稿が目に飛び込んできました。

「『知』ってなんだろう」

すごく純粋で、誰でも抱くような疑問で、けれど簡単には出せない難問を突きつけられた気がしました。
そもそも知にはいくつか種類というか、階層があると思うのです。これについては詳しくは「想像する心 これからの教育に必要なこと」(Minsky, 2020)を読んでいただきたいのですが、知の根本にはまず「知識」があると私は考えます。1+1=2という事実や、国語であれば「用言とは単独で述語になるものである」だとか。それは先人による発見であったり、明文化であったり、様々に形を整えられた「リソース」です。だからそれを学ぶことが授業の基礎的な役割のひとつです。巨人の肩の上に立つことが、学問の始まりですからね。しかし知識が「点」(=ほかの情報とリンクしていない)の状態ではうまく使えません。だからそれを使って思考する、「活用」の段階が次に来ると思っています。社会に出てから学んだことが思いもよらないところで繋がることがある経験は多いはず。それは「点」だった知識が、思考することによって「線」(=知識が繋がってものの見方に深さが与えられること)になる状態になったからです。社会に出ないとそれはなかなか気づけないのかもしれませんが、教科横断などで少しでも社会に出る前から「知識って繋がるんだよ」と教えていく必要はあると思います。
そして最終的には、もっと高い視点に立って「自分の考え方を見直す」メタ認知の領域までいく……はずなのですが、なかなか私の授業だけではそこにたどり着けないこともしばしばで、その補助として「リフレクション」を行っているわけです。

知識なんていらない、勉強なんてしたくない、と思う方も一定数いらっしゃることは私も認識しております。
ですが社会に出て行ったあとで後悔すると思います。まあ、どのコミュニティに属するかで変わる部分ではあるので、あまり教養を重んじない集団に入ってしまえばそれまでですが、そういう集団はだいたいつまらないです。知的刺激はおよそありません。ぬるま湯からどんどん茹でられていくカエルさんのように、今まで持っていたはずの知識がじわじわ浸食されていって、最終的に使い物にならなくなって、学びなおし、みたいなこともあり得るでしょう。そうならないために学校教育制度があると思っているのですが、最近はそれもあまり機能していないので、こうして在野的に「知識って大事だよ、教養は身につけておけば得だよ」と伝えていくしかないのかもしれません。
そういう意味での「知識を重んずる姿勢」というのは受け入れがたいものがあるのか、あまり浸透していきません。実感がわかないのもそうですが、おそらくは教師の押し付けに見えるからだと私は思っています。
教師だって、自分の経験だけで語るのはよくないのは当たり前です。目の前にいるのは自分とは異なる人間なのですから、同じ考えに持っていこうとする時点で洗脳と同じです。
ですが、知識を与えて「こんな風に使えるよ、よかったら使ってみてね」と種をまいていくようにお役立ちtipsを投げかけるだけでも、その後児童生徒たちが歩んでいく未来は変わると思います。使うも使わないもあなた次第、だけれど何かを変える力にはなるからね、と伝えていきたいのです。

私自身の経験では、大嫌いだった家庭科のお裁縫や算数の展開図は今ハンドメイドに活きていますし、国語に限って言えば「言葉を適切に扱って論理的に思考する」という思考のフレームを得られたことは、学校教育で学んでおいてよかったな、と思うものたちです。
そういう経験が今の児童生徒には少ないのかもしれませんが、私はそういう「純粋な疑問」から「メタ認知」へと思考を転化させることを、自分の授業では大事にしたいですし、おしゃべりの方ではまだうまく言語化できなかったので、こうして記録しています。
自分の経験で何かを押し付けることはしたくないけれど、良かれと思って助言しているのを「いらない」とはねのけられるのは悲しいですし、将来が心配にもなります。だから学生のうちは、とにかく本を読んだり真面目に授業を受けたり、「知識」を増やすことと「思考のフレーム」を得ることに注力して、できるだけ自分のいる「学が無くても良しとされてしまう世界」から逃れてほしいな、と思うのです。もちろんその世界が居心地のいいものなら強制はしませんが、いつか終わる泡沫の世界であることだけは警告しておきたいなと思っています。

まとめます。
「知識を得る」「思考のフレームを得る」→メタ認知
これができるようになると、社会においてかなり強い効果を発揮します。そのための教育です。
学の要らない世界に順応するのはおすすめしない
「何のために学ぶのか」について、我々教師は常にこれを自らに問い直し、答えられるようにしなければならないですが、エリートにならない生徒に対しても学んだことが活きるよ、というのは伝えていくべきだと思います。

そんなところでこの話はおしまいです。それでは、また。

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