Knight and Mist第十章-1温泉に行きたい
「一個だけお願いを聞いてください」
ベッドのなかでセシルがまたワガママを言い始めた。
そこは都の広場近くにある気持ちの良い部屋だった。とある貴族の持ち物で、市中に出るときに使う洋館である。
今は持ち主は領地におり不在で、使わせてもらっている状態である。
清潔な布団に清潔なベッド。窓からの風景は美しく、王都の街並みが一望でき、良い薫りの風が吹き込んでくる。どこからか鐘の音がする。
あのあと。レティシアの力で姿を隠し塔を脱出。客間はモンドの登場でさらに荒れていたらしい。警備兵に会うこともなくあっさりと脱出できたのだった。
その後合流したアザナルが治療にあたったもののそれでは足りず、結局王室付きの神官による《回復魔導》や《浄化魔導》でやっとセシルの命が助かった。怪我のこともあるが、それよりも感染症が深刻だったらしい。
彼は高熱で三日間生死の境をさまよったあと、順調に回復していた。
救出から一週間くらい、昨日は久しぶりに普通のスープが食べられたところだ。
「死ななかったので言うこと聞いてください」
セシルがなおも言う。
「昨日だって聞いたでしょ! 一生のお願いて言ってたじゃない! 一生のお願い使ったからもう終わり!」
ハルカが言うと、セシルが頭をかいた。
「えー、じゃあシンプルに普通にお願いします」
「図々しいというかなんというか……」
しつこく言うのでハルカは呆れて笑った。
「で、なに。昨日のお願いは手料理が食べたいって言うから、レティシアの手を借りて頑張ってつくったんだよ! わけわからん食材いっぱい切ったよ!」
「あんまり美味しくなかった……」
ビキビキとくるハルカに、やたらにやけ顔のセシル。
「まあ、元気になってよかった。ムカつくぐらいに」
意識のないときは手を握り続け回復を願った。あのときは必死だったし、憎まれ口をたたくのも、それをつっぱねるのももう安心だということだ。ハルカは微笑んだーーら、セシルが顔を背けた。
「なによ! 無事でよかったって心から思ってたのに!」
「ゴホンゴホン、えー、あの、えー……」
珍しく口ごもるセシル。
「ホラ、傷すごかったでしょう? 全部治しちゃったのかなあと思いまして……」
なんか変なことを言い出すセシル。
「そのこと!? 変な趣味。ご心配なく。イーディスとアザナルとキアラで考えて、少し残してあるよ。消したければすぐ消せるし、好きなようにできるってアザナルが言ってた」
「えー、はい。今回はなかなか強烈な体験でしたからね、記念にとっときたいですよね、うん。まあ、そんなことはどうでもいいんですが」
「で、お願いって何よ。その傷痕のこと?」
ハルカが怪訝に思って聞く。目を覚ましてからというもの、セシルが変だ。心配でそのことをみんなに尋ねると、全員がレティシアを見たのも謎だ。セシルはカーテンの精霊になったのだろうか?
「おいセシル! 元気になって何よりだ! お、お嬢ちゃんもいるな」
急に扉が開き、入ってくるなり言った。キアラだ。
「なんだよ、なんで睨むんだよお前。空気読んでそっとしといてやってるだろ!」
なんか言い始めるキアラ。
「その無神経な大声が傷に響くんです!」
セシルが言った。
「で、どうしたの?」
「ここスループレイナには温泉ってもんがあるんだ。一大事レジャー施設みたいなもんなんだぜ! せっかくレティシアちゃんやイーディスちゃんも来てるからさ、おもてなししようと思ってイスカゼーレで貸切にしたのさ! 薬湯もあるから傷にもいいし」
「へー! なんか面白そう!」
「湯着っていう軽装で湯気のなか歩き回ってさ、フルーツの盛り合わせとか食い放題なわけ! 楽しいぞー!」
キアラが温泉の楽しさを語っていると、途端にセシルがガバッと体を起こした。
「湯着!? 絶対ダメです!!!!」
「??? なにが?」
キアラがわけがわからないという顔になる。
「温泉で湯着は普通だろ」
「ハルカは温泉立ち入り禁止!!!!」
「えー!? ひどい! なんなの、暴君なの!? 私も息抜きしたい!」
「絶対にダメ!」
「キアラ、絶対におかしい! セシルは頭でも打ったの!?」
「どこもかしこも打ちましたよ!」
セシルが言い募る。キアラはハーン、と半笑いになった。そこでセシルの顔が引き攣る。
「ま、これは西の人たちのおもてなしだから、温泉嫌いのお前は参加しなくてもいいから。ハルカ、セシルの面倒は誰か見るから遠慮なく遊びに来ていいからな」
キアラが言う。ハルカはセシルとキアラを交互に見て、それからセシルに訴えた。なんだか友達のうちに泊まりに行きたいと父親に訴えたときを思い出した。
「温泉行ってみたい」
セシルはガックリして、力なく頭を振ったのだった。
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