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無意識の力で「与えあう」推し活~誰のために推し活をするのか~

無意識に任せて動いてみると、不思議なことが起きることがある。

もう何か月か経ってしまったけれど、大嶋信頼先生の今現在において最新刊の『「与えあう」ことで人生は動きだす』を初めて目にしたとき、私は「自分のしていたことがついに認められた!」と勝手にはしゃいでいた。

というのも、「無意識さん」と出会ってからVtuber(バーチャルyoutuber)を推すようになった私は、自分のやっていることを「無意識の力を使った推し活」だと心の中で自負していたから。大嶋先生は「自分中心の人生を生きましょう」と何度も仰っているのにも関わらず、こんなアホなことをやっているのは私一人だと思っていた。まあでも、意識でなんとかしない「アホセラピー」の精神からすればちゃんと私のやっていることにも無意識が宿っているはず!と孤軍奮闘していたのだけれど、本書の「推せば推すほど豊かになっていく仕組み」という項目を見て「やはり私のやっていたことは間違っていなかった!」と一人で喜んでいた。

ところが、中を読んでみたら、そこにはそんな軽いノリでは片付かないいくつもの闇が渦巻いていた。自己犠牲によって自ら搾取を求めてしまう心の傷、持っている人にならなければ持っている物すら奪われてしまう「マタイの法則」、何より与えることで相手を支配をしてしまっているという衝撃の事実…その悉く全てに私はいくつもの心当たりを感じた。そんな私にとってこの本を読み切ることは、ずしんと重くのしかかる自分の影に一つ一つ光を与えて手放すという、可愛い表紙とは正反対の過酷な作業だった。

ここで一つ不思議なことがある。この本を読んでこんなにグサグサくるほど支配や自己犠牲にまみれていた私が、なぜ「無意識」の力を使った推し活などと自称して心から楽しむことが出来たのか?

その答えを探るために、まずは私の推し活を振り返ってみようと思う。

飛び込んでみて初めて目にした「与えあう」世界

推し活を始める前の私は、正直言ってアイドルやアイドルオタクは好きではなかった。彼らは甘い夢を見せられて搾取されているようにしか見えていなかったし、ハマっている側もそれを自ら望んでいるように見えるのも何だか嫌で、アイドル自身も、社会の歯車の中で自分の成功と引き換えに誰かに利用されているのだろうと思っていた。「与えあう」とは真逆の奪い合う世界に見えていたとさえいえる。

そんな風に彼らを見下すような見方をしていた私自身はというと、自己啓発やスピリチュアルの世界に依存していた。依存していながらも疑い深い私は、その界隈の人たちを信じてついていくことが出来ず、何も成し遂げないまま知識と技術とプライドだけが膨れ上がっていき、ついには尊敬していた人や仲間にも失望された。「もう私には何も残っていない…」そんな失意の中で出会ったのが「無意識さん」だった。

大嶋信頼先生の著書『支配されちゃう人たち』を読んだことで、私が今まで抱えてきた人生観がガラガラと崩れ、「無意識さん」とともに生まれ変わることを決意したことは、また別の機会に書こうと思う。ともかく、そんな転機を迎えた私が、とにかく何か新しいことをしたいと思って始めたのが「推し活」だった。

といっても、最初に私がしたことは「お別れの挨拶」だった。きっかけは、当時の自分に元気を与えてくれていたVtuberの朝ノ光さんが引退すると知ったことだ。それまでコメントにも参加せず見ているだけだったが、会えなくなる前に何か感謝の気持ちを伝えたいと思い立ち、そのためだけにTwitterのアカウントを作った。

Twitterのアカウントを作ったのは、ある企画に参加するためだ。ファンの方が提案した「#ぼくらの光」という企画で、朝日の光の写真をファンのみんなで撮影して送ることで、彼女への餞別にしようというものだった。こんな作ったばかりで誰にも知られていないアカウントで参加したところでちゃんと見てもらえるかもわからない。それでも感謝の気持ちは伝えたい。そう思って写真をあげたその朝。そこには「与えあう」世界が広がっていた。

朝ノ光の姉の朝ノ瑠璃さんが、私を含め参加者全員の写真を拡散してくれ、それだけでなく、ファンの皆がその写真の一つ一つに「いいね」や「リツイート」を贈り合っているのだ。誰にも見られたことのない私のアカウントにも、気が付けばたくさんの「いいね」が贈られていた。
その時から私は、ここにこそ、私が本当に求めていた「美しさ」があると確信した。朝ノ光さんは運営側とのトラブルがあったらしく、最後の配信が行われることはなかった。お別れの挨拶を直接伝えることは叶わなかったが、あの美しい「与えあう」場を生み出すほどたくさんの人の心を動かしたあの人になら、きっとあの光は届いてるだろうと信じている。

私がいわゆる「推し活」をするようになったのは、それからしばらくして、占い師Vtuber、「Fortune」×「Vtuber」で通称Ftuberの「セフィラ・スゥ」に出会ってからだ。

推し活の中で体験した「奇跡」

その頃も、別に意識して「この人を応援するぞ!」とか思ってやっていたわけではない。ただ、人数の少ない配信でも心底楽しそうに活動している彼女の姿や、その背景に感じられる聡明さやひたむきさにとにかく憧れて、配信に行くのが楽しくてしょうがなかった。そんな彼女の姿の鏡写しのように、ファンの「迷える子羊さん」たちも親切な人ばかりで、有名な人たちの派手で華やかな配信とは全く違う、穏やかで温かい空間が広がっていた。そこに私は、あの朝の光と同じ美しさ、居心地の良さを感じていた。

そんな中で、私は何度か、少なくとも私にとっては「奇跡」としか思えない不思議な体験をした。

10年以上前から、私は作曲家に憧れていた。しかし、色んな壁を感じて、いつの間にか作曲のソフトを開かなくなったまま何年も経っていた。そんな私が、(セフィラ・)スゥちゃんへのファンアートとしてなら、作曲を再開出来てしまったのだ。さらに、同じ「子羊さん」仲間の絵師さんとも不思議な形で縁がつながって、憧れの合作まですることが出来た。
あんなに長いこと停滞し続けていたのに、まるで推し活が自分を成長させてくれている感じがして、この時から、私が思っている以上にこの活動は私にとって重要なのかもしれないと思うようになった。

その翌年の初めに、彼女は引退してしまった。運営の方針が原因で、自身の本意によるものではなかった。私にも「子羊さん」たちの間にも色んな想いが渦巻いていたが、私に出来ることは自分の「好き」を表現して伝えることだけだ。そう思って餞別に作っていた動画があったが、最後の配信日までに完成が間に合わず、進捗報告の動画で収まってしまった。
それから1年間、私は推し活から離れていた。もう推したい人はいないけれど、あの作品だけはなんとしても完成させたい。その一心で、スゥちゃんの次の誕生日に投稿すると決めて、その動画を作り続けていた。

そして当日。引退からもう1年経っているにも関わらず、子羊さんたちがそれぞれの形で、彼女の誕生日を祝い合っていた。
私が投稿した動画にも、子羊さんたちが温かい反応をくれた。そして、再び奇跡が起きた。
その感想コメントの中に「名もなき占い師」の姿があったのだ。あの時の気持ちは今でも忘れられない。引退してFtuberとしての名前を失ってもなお、彼女がこの日のこと、子羊さんたちのことを忘れずに見てくれていた喜び。自分の努力が報われたような安堵感。そしてその努力だけでは説明のつかない、何か大きな流れの中にいるような気がして「自分は夢でも見ているのではないか」とその日1日中、ふわふわした気持ちだった。

こうして振り返ってみると、私は与えてもらってばかりだった気がする。私は純粋に好きな人を追って好きなことを楽しんでいるだけだったから。それに色んな人たちがいつも温かい反応をくれて、お互いに「好き」を共有しあって楽しめていたのは、そこに「与えあう」美しい場が出来ていたからこそだと思う。

誰の為でもない「好き」の背後に宿る無意識からの無限の愛

さて、最初の疑問に戻ろう。日ごろは意識だらけ、自己犠牲愛や罪悪感、支配にまみれた私が、推し活の中ではなぜここまで「与えあう」関係で楽しみ、「奇跡」を体験することまで出来たのか?

一つは、「すでに十分受け取っている」という気持ちが先にあったこと。朝ノ光さんのケースでいえば新しい自分としてアカウントを開設するほどの活力、セフィラ・スゥちゃんのケースでいうと、諦めていた作曲に再び挑戦するという勇気を受け取っていて、その受け取ったものを形あるものに変えたいという感覚だった。これは本書の『マタイの法則』の「持っているものがますます豊かになる」が上手く作用したのかもしれない。

もう一つは、良い意味で「相手のため」を意識しなかった点だと思う。とにかく自分の「好き」を伝える楽しさに夢中で、それが推しの役に立つかなど全く考えていなかった。

あ!その「好き」の背後に無意識が宿っているのかもしれない!自己犠牲的に何かをしてきた時の私には「好き」がなかった。でも、推しが、ファンのみんなが、あの場所がとにかく「好き」で、その気持ちにしたがって自分の「好き」を「好き」な形で表現しているとき、そこには対象のない無意識からの愛が溢れているのかもれしれない。

今の私は、あの頃のように胸を張って「推し活してます!」と言えるほどの活動はしていない。それでも、大好きな推しやそのファンのみんなを見る度に、あの「与えあう」世界の光が私の心を温めてくれる。

もちろん、中には、自己犠牲愛や罪悪感を感じながら活動している人もいるかもしれない。それでも、いや、それだからこそ、私はもう自己犠牲も罪悪感も背負わず、自分の「好き」にしたがい、「好き」な人に「好き」な形で想いを伝えていこうと思う。

その「好き」の背後に宿る無意識からの無限の愛が、何度でも私を突き動かしてくれるから。


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